浅間山大噴火と上信越の打ちこわし
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「天明の打ちこわし」の記事における「浅間山大噴火と上信越の打ちこわし」の解説
天明3年は東北地方の著しい天候不順による大凶作とともに、信濃国と上野国の境にそびえる活火山・浅間山が大噴火を起こし、甚大な被害をもたらした。浅間山は天明3年の4月から噴火活動を開始し、7月には大規模な火砕流が北麓の村落を埋没させた後、利根川の支流である吾妻川に流入して火山泥流となり、吾妻川から利根川にかけて大量の火山灰を堆積させながら流れ下ることにより洪水を引き起こし、更には利根川に大量の土砂を堆積させ、河床の上昇をもたらした。また一連の噴火活動で噴出した大量の火山灰は多くの耕地を荒廃させ、米価高騰の引き金となった。天明3年9月20日(1783年10月15日)には上野の安中藩では米価の高騰に抗議する打ちこわしが発生し、10月には打ちこわしは信濃へと広がった。上野から信濃へと広まった打ちこわしは、当時の百姓一揆ではおおむね守られていた領主への訴願をその活動の中心とし、盗みや略奪は行わないという統制が崩壊し、これまで見られなかった金品や衣類、食糧を強奪するために打ちこわしを行うといった暴力的な様相を呈した。 これまでおおむね守られてきた一揆や打ちこわし時の統制が崩れ、領主への訴願ではなく盗みや略奪を目的とした打ちこわしが広がった原因は、天明期の領主はこれまでと比較して領内の問題を解決する能力が低下し、領民が訴願行為に期待を持てなくなった現れと考えられる。これまでとは異なる略奪目的の打ちこわしが広まった事実に衝撃を受けた幕府は、略奪を主導する扇動者がいると判断し、扇動者を「悪党」と呼び、一揆の指導者である「頭取」と区別して悪党に対する厳しい弾圧を行った。 上信越に広まった略奪目的の打ちこわしの扇動者に対する弾圧を進めながら、幕府は天明4年閏1月16日(1784年3月7日)に、関東、東北一円、信濃に村役人や農民が所持している自家用以外の米、麦、雑穀を売るように指示し、さらに穀類の買占め禁止、米屋などに対する打ちこわしを禁止する法令を出した。これは天明の大飢饉、浅間山の大噴火の被災地である関東、東北、信濃では極度の食糧不足により米価や穀物の価格が急騰しており、供給量を増やすことによって価格を下げ、一揆や打ちこわしを防ぐことを目的とした。しかし天明4年2月28日(1784年4月17日)には、武蔵多摩郡の村山で、領主への訴願行為を全く行わずして米の買占めを行っていた人々に対する打ちこわしが発生してしまった。
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