浅間明神と諏訪明神
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 01:37 UTC 版)
現在の吉田の火祭は、木花開耶姫命を祭神とする浅間明神(北口本宮冨士浅間神社)と、建御名方神を祭神とする諏訪明神社(諏訪神社)の、両社の祭典として、浅間社宮司が主宰して執行されている。 だが元々は諏訪明神(諏訪神社)の旧暦7月23日の祭典であった。諏訪明神は『甲斐国志』(巻之七一)によれば、神主である上吉田中宿の佐藤家の氏神であったものが、後に上吉田の町の産土神となったものであり、1494年(明応3年)の『勝山記』にもその名が見られる。 一方の浅間明神(現、北口本宮浅間神社)は、現在地からやや西の大塚に設けられていた富士山遥拝所を、1480年(文明12年)ごろ諏訪明神境内に鳥居を立ち、同地に移された。その後永禄4年武田信玄造営と伝わる社殿が造られ、富士山2合目の御室浅間(現:富士御室浅間神社)を勧請して神社になったものと推定されている。このような関係であったため、天文年間や永禄年間の小山田信有の神事や軍功祈願状などの文書は諏訪明神宛に発給されており、当初は諏訪明神が富士信仰の北口拠点の中心的役割を担っていたものと考えられている。 しかし、武田氏、小山田氏が滅亡すると、吉田地域の近世領主たちは社殿の造営をはじめとする各種寄進を浅間神社に行い、信仰の拠点を浅間神社へ移し、元々諏訪神社の祭典であった火祭は浅間神社が主催する両社の祭典となった。
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