流儀の歴史
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流派成立時の歴史については諸説があり定かではないが、福野七郎右衛門正勝(諱は友善とも)と茨木又左衛門俊房(茨木専斎)が興した武術、武芸が端緒となる。二人とも新陰流(柳生新陰流)および柳生氏と関わりがあった。 茨木又左衛門俊房が茨木の城を出た後に柳生家に入って武芸の研究練磨に当たる中自身が工夫した兵法の名を「乱」と名付けて沢庵和尚に書して話したところ乱起倒流とされたものが起倒流乱である。 一方、福野七郎右衛門正勝も柳生家で武芸の工夫に当たって良移心当和を興している。また、福野は江戸麻布の国昌寺の衆寮にて明国人の陳元贇から中国拳法について見聞きしたとの記事が伝わっており(但し福野は見聞きしていただけで、陳元贇は拳法を教しえてはいないと記述されている)、このことについて東京港区愛宕の愛宕神社にある起倒流拳法碑には「拳法之有傳也 自投化明人陳元贇而始而起倒之號 出於福野氏而成于寺田氏…」と書かれている。 他方、福野正勝の門下に寺田頼重(寺田八左衛門)(福野流)がおり、その甥の寺田満英(寺田勘右衛門 諱は正重とも)はこの叔父から福野流を学び起倒流組討を称した。同時に、寺田満英(寺田勘右衛門、前の諱は正重)は父の寺田安定(寺田平左衛門)から貞心流を伝えられ、直信流の流祖ともなっている。。
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流儀の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 07:45 UTC 版)
神道楊心流は、1864年5月1日に松岡克之助が、天神真楊流の技法と戸塚派揚心流を融合し直心影流の理合を導入して開いた流派である。 神道楊心流柔術の流祖、松岡克之助尚周は、旧黒田藩士で、幕末期に講武所修業人に選ばれ、その後幕臣に登用された。松岡克之助は宝蔵院槍術、剣術を千葉周作と榊原鍵吉に学び、天神真楊流柔術を磯正智に、戸塚派揚心流を戸塚英俊に学び、神道楊心流を元治元年に創始した。 常陸国真壁郡上野村に神道館道場を建て門弟を指導した。神道楊心流の入門帳に血判署名した門人は3000人を数え、目録以上の免許授与者は786名いた。神道楊心流の目録免許は、乱取仕合で講道館の強い五段を相手に互角に勝負できるようにならなければ出されなかった。また切紙免許で強い者だと大日本武徳会や講道館の三段と互角に試合ができた。 日中戦争が始まった頃から、神道揚心流柔道と称し独自に審査会を開いて段位を認定していた。その認定者だけを大日本武徳会の審査会へ申請していた。 神道楊心流は、松岡克之助、二代目猪瀬元吉、三代目松岡龍雄と伝承されたが松岡龍雄が4代目を決めていなかったため、神道揚心流同門会を設立し藤原稜三が代表となった。 松岡龍雄の存命中に4代目を選出する予定であったが決まらず、また同門会から後継者が出なかったため神道楊心流は活動停止した。
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流儀の歴史
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流祖は、長崎の松浦武兵衞(まつうらぶへい)である。 仙台藩登米に伝わっていた柔術である。 越後国に伝わっていた西法印流(西法院流)の分派である。村田太郎右衛門重家より松浦武兵衞に伝わる。西法印流は、伝書に「長尾謙信御内銘西法院流也」と書かれており長尾謙信に縁のある武術である。 松浦武兵衛の西法院武安流の伝承では鞍馬山西谷の僧正坊が牛若丸に伝授した兵法の流れを汲んでいるとされている。 稽古は農家や納屋の土間にねこがき(藁を編んで作るもの)を敷き詰めて行われた。 登米神社に「西法院武安流武者捕 柔術 袋地亮治翁之碑」が建立されている。 西法院武安流武者捕保存会が登米市で活動していたが、柴田茂の死去により同地での西法院武安流の伝承は途絶えた。 また、袋地亮治の門人の伊藤幹夫から西法院武安流の一部を学んだ小佐野淳が山梨で伝承している。
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