起倒流乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:58 UTC 版)
起倒流乱は茨木又左衛門俊房より四国や九州に伝えられ(「乱起倒流」、「起倒乱流」ともいう)、特に佐賀藩やその支藩の小城藩で盛んであった。伝承内容は吉村扶寿を二代とする起倒流とは異なり、一般によく知られている表十四本裏七本は茨城又左衛門俊房の代には存在しなかった。 茨木又左衛門俊房の開いた起倒流乱の目録は『月之抄』に収載されている寛永四年(1627年)丁丑九月十一日のもの?または寛永十四年(1637年)丁丑極月廿九日に柳生但馬守宗矩に呈したもの?が最初であり、目録のほかに得心目録、五行分配書(理気差別論)を伝えた。 以下の技は茨木又左衛門俊房が大塚勝右衛門に授けた『起倒流乱授業目録』に記載されていたものである。表五箇と奥五箇に加え実戦における方法、心得が外物として伝えられていた。 『起倒流乱授業目録』 表五箇體、體車、請、左右、前後 奥五箇行連、行違、行當、身碎、谷辷 外物取合 引落 後詰 鐔責 嵐 風車 楯合 抜身 生捕縄 坂 橋 水中 船 馬上
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