沈滞期(1993年 - 1998年)
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「ハンファ・イーグルス」の記事における「沈滞期(1993年 - 1998年)」の解説
1993年シーズンは故障者続出であったが、特に2年連続でホームランと打点の年間記録を更新した張鍾熏の負傷と不振は致命的であった。そして、新戦力の方でも前年のドラフトで大卒、高卒でそれぞれ目玉になっていた具臺晟と盧長震(ノ・ジャンジン)を取りながら、具臺晟は故障、盧長震はプロの厳しいトレーニングについていけず、チームを離脱した。 結局、チームも5年ぶりに5位以下へ転落して、金永徳監督がこのシーズンオフ限りで、韓国シリーズでの4度の失敗とこの年の不振の責任を取って、契約切れをもって退団した。 翌年の1994年は親会社の韓国火薬の総帥一家の相続を巡る争いで、それまでチームの冠会社だったピングレが系列から分離。しかし、プロ野球チームの保有はそのまま親会社の韓国火薬が続けることになった。そして、ピングレ側の分離を以て韓国火薬もハンファに名称を変更。それにしたがってチーム名も「ハンファ・イーグルス」(한화 이글스)に変わり、ユニフォームやロゴも一新された。そして、金永徳監督の時にヘッド・コーチを務め、またロッテ・ジャイアンツを2度の優勝に導いた姜秉徹(カン・ビョンチョル)を後任監督として招いた。この年は、序盤の不振を克服して、レギュラーシーズンはヘテと同率3位で終了。準プレイオフでは対戦成績で勝ち越したヘテの方に開幕権を譲ったが2連勝で通過。4度の韓国シリーズの中で3度の失敗のリベンジを少しながら果たした。しかし、プレイオフでは太平洋ドルフィンズに3連敗となった。 1995年からは、1990年前後を支えた選手たちに衰えが見え始め、1992年入団の鄭珉哲と1993年入団の具臺晟を除くと、それを補う新戦力はなかなか登場せず、世代交代に苦労してチーム戦力は下降の一路をたどるようになった。1996年は、16勝24セーブで5冠(MVP、最多勝、最優勝防御率、勝率、最優秀救援)のタイトルを取った具臺晟の大車輪の活躍によりレギュラーシーズン3位で準プレイオフに進出したが、4位の現代ユニコーンズに敗退した。そして、1997年・1998年は2年連続7位に止まり、1998年KBOオールスターゲームによる中断期間に姜秉徹監督を解任するという、球団史上初のシーズン途中監督交代という事態に至った。
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