理科教育沈滞期の神戸
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1938年(昭和13年)の『日本理科教育発達史』の中で神戸は、 我が国の理科教育は欧州大戦後に大発展を遂げて、前古未曾有の盛時を思わせましたが、大正の末期から昭和の初めにかけて、ほとんど没落の惨状を呈するに至りました。 と現状を嘆いている。その原因は日本社会が「日本精神振興」に向かったことである。神戸は同書で、 理科教育と精神教育とはそれほど相反するものであるかと。時勢の動きや思潮の波というものは実に恐ろしいもので、日本精神興作の声が高くなるにつれて、理科教育があたかも偏知教育であるかのごとく誤解されたのであります。 と述べている。 第一次世界大戦後の科学教育振興のスローガンが「独創力の養成」「科学的精神の養成」であり、そのための「生徒実験の導入」「児童本位・学習中心の理科教育の導入」だったが、その後の不況のもとで政府・支配階級・軍部の中に「科学教育は危険思想の温床である唯物論的思想の元になる」として危険視されるようになった。 科学教育は、それが科学の伝統に基づく独創的・批判的な科学的精神の育成を意図するものである限り、支配者が科学に反する行動を取ろうとするときに、支配者に対して批判的な思想を生み出すもとにならざるを得ない。科学の教育は、それが合理的・実証的な考え方を養成しようとするものである限り、不合理な社会制度と矛盾する。 このような流れの中で地方の教育担当者や校長などが支配者の意向を察して、理科教育に冷淡になり、それを厄介視するようになった。 そのような中でも神戸は、国定教科書の解説書『理科教材と其取扱』の出版で自説を曲げずに批判活動を続け、神戸の一連の著作はいずれも長い間にわたって版を重ね多くの読者を得た。それは国定『小学理科書』の存続している間生き続けた。
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