10・26事件以後
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デビューと同時に全国的な人気を得た沈守峰は、デビュー前から大統領府に招かれていた縁もあり、朴正煕は宴会にしばしば沈守峰を招き、大統領府の宴会は彼女にとっても大きな舞台になっていた。しかし、1979年10月26日に宮井洞(クンジョンドン)の宴会場に招かれて歌った沈守峰は、その場で朴正煕暗殺事件(10・26事件)に巻き込まれることとなる。沈守峰に怪我はなく取り調べでの証言も行ったものの、当時の時代的状況のため、放送活動禁止措置にあい、また、精神病院に送られるなど、様々な圧力に耐えなければならなかった。歌手として活動できなくなった沈守峰は、1980年の映画『아낌없이 바쳤는데』に映画初出演で主演にキャスティングされ、映画主題曲のサウンドトラックも自ら作った。沈守峰の復帰作として話題の中心となったこの映画は、封切り後、観客5万人を突破する興行成績をあげ、香港に輸出もされた。 また、1979年にはドラマ『순자의 가을』の主題曲のサウンドトラック「순자의 가을」を自作自演した。この曲は、当初は問題がなかったが、1980年に全斗煥政権になると、曲名に大統領夫人(李順子)の名前「スンジャ」が入っているという理由で放送禁止措置になった。 1980年2月、大学卒業。 日本デビューは1980年5月、「クッテ クサラム」を石坂まさをの訳詞による「あの時あの人」のタイトルでRVCレコードから発売した。 1983年には、後輩の歌手バンミ(朝鮮語版)が、「순자의 가을」を「올 가을엔 사랑할거야」と改め、歌詞の一部を修正して歌い、人気を集めた。 1984年には、この曲の放送禁止措置が解除されると、それを埋め合わせるように、「올 가을엔 사랑할거야」という曲名でレコードの再録音がなされた。1984年に歌謡界に復帰した後、彼女は家庭問題で沈滞期に陥ったが、自ら作詞作曲した「ナムジャヌン ペ ヨジャヌン ハング」が収録されたアルバムは猥褻かどうかといった議論が出たにもかかわらず、2万枚余りの売利上げを記録し、沈守峰は再び全盛期を迎えた。 しかし、1985年に発表した「ムグンファ(무궁화)」(「ムクゲ」の意)は、ヒットもしたが、歌詞が時代状況の下で国民を扇動する意図があると見なされ、一日で放送禁止措置になった。沈守峰は、他の歌手よりも数多く直接的な政治的弾圧を受け、歌手活動に支障を受けた自身が経験を音楽に表現し、大衆の耳目を集めるような悲しく切ない曲を数多く歌った。
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