武蔵の大踊り
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武蔵の盆踊り・大踊り開催日 8月14日 場 所 吉野郡十津川村大字武蔵旧武蔵小学校校庭(雨天時は横のお堂内) 大字小原の十津川対岸にある大字武蔵の盆踊りは、8月14日の夜に現在は廃校となっている旧武蔵小学校(もと長盛山光明寺)の校庭に櫓を組んで行われる。こちらも元は寺の堂内で踊られていたが、参加者の増加に伴い1950年代頃から屋外で行うようになった。この堂は今も校庭の隅に残っており雨天のときに使われている。盆踊りは青年会が主催し、婦人会と武蔵踊保存会の協力で行われており、大踊りは武蔵踊保存会が中心となって踊る。武蔵踊保存会は村内ではいち早く1965年(昭和40年)1月に結成された。 踊りはお松口説き・お杉口説き・花づくし・笠くずし・笠踊り・おかげ踊りなど30余曲あるが、それらを踊ったあと大踊りが踊られる。現在伝承されている大踊りは1曲のみであるが、かつて踊られていた、十三四五・鎌倉踊り・御城踊りは本踊りといい、広義の大踊りに含む考え方もある。十三四五は胸に太鼓を吊り下げる形式のもので、近隣の同曲の中でも武蔵のそれは一番賑やかであったという。 大踊りは馬鹿踊りとは異なり男女に分かれて踊る。まず櫓の近くに太鼓と撥を持った男性が並び、その外側に扇を持った女性、その外側に灯籠のついた笹竹を持つ子どもたちが並ぶ。最初のモト歌は動きの少ない静かな踊りである。音頭取りが「ナムアミダブツ」を唱えると踊り手一同は櫓を囲んで輪になり、太鼓の男性たちが太鼓持ちと太鼓打ち二人一組となって輪の内側に入る。続くセメと呼ばれる部分になるとテンポが上がり、歌い方や踊り方が変わり動きが激しくなる。「弱い奴はまくり出せ」の掛け声の中で踊りの場は高揚し、踊りの輪の内側では太鼓打ちははねるようにして太鼓を打ち、女性たちは腰を屈め(小原、西川に比べ武蔵が最も前傾姿勢)扇を大きく翻し踊り、灯籠持ちは踊りの場を駆け巡り雰囲気を盛り上げる。昔は最後には灯籠を焼いたという。つまり盆の灯籠送りの作法を行っていた。また仮装した道化者が出る年もある。 馬鹿踊りの3時間に対し、大踊りの30分は曲、踊りともに変化に富み、始まるとまたたく間に終わるように思われる。かつての大踊りは1時間を超えるものであったが1970年(昭和45年)の大阪万博公演の際に時間制限が設けられ短縮し、以来地元で踊る場合も短くなったという。この万博時に猛特訓を行ったことで踊りも洗練され、以前は男性のみで歌っていたものが男女の掛け合いで歌う形になるなど万博公演は大踊りに変化を与えた。 少子高齢化による伝承の憂慮もあり、武蔵では村外の後継者育成にも力を入れている。北海道新十津川町への伝承普及活動も1979年(昭和54年)に始まった。翌1980年(昭和55年)には新十津川おどり保存会が組織され、1983年(昭和58年)に大踊りを伝承した。新十津川町の小学生が母村訪問研修で十津川村を訪れる際には武蔵に宿泊し盆踊りを伝授するなど交流を続けている。また奈良県下の小学生が武蔵に宿泊する機会には盆踊りの練習に参加してもらうなど、外部への伝承活動も積極的に行っている。さらには、30年以上武蔵の盆踊りに通い続けているという音楽学者中川真(大阪市立大学)が率いる一団が、2013年現在も毎年8月にやって来て準備、練習、盆踊りに参加しており、武蔵の盆踊りに欠かせない伝承者の一員となっている。
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