板附古墳群と駄ノ塚古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/17 14:24 UTC 版)
「駄ノ塚古墳」の記事における「板附古墳群と駄ノ塚古墳」の解説
板附古墳群は作田川に面する標高約44-50メートルの台地上にあって、前方後円墳3基、方墳3基、円墳29基の合計35基の古墳が確認されている古墳群であり、35基のうち3基は古墳でない可能性もあると考えられている。古墳群の中で3基の古墳はすでに消滅しており、現在32基の古墳が残っているが、その他にも開墾などによって消滅した古墳が存在する可能性がある。古墳群は作田川から北東方向に伸びる小さな谷によって、谷の南側の群と北側群に分けられ、北側群は更に小さな谷によって東側と西側の群に分けられる。つまり板附古墳群は古墳群がある台地が谷によって大きく3つに分けられているため、三つの群に分けられるとされ、駄ノ塚古墳は谷の最奥部上の台地にある北西の群に属し、古墳がある場所の標高は約50メートルである。 板附古墳群はこれまで発掘調査が行われた古墳が7基しかなく、古墳群の全貌は明らかになっていない。古墳群の中で古い時代に築造されたことが知られる古墳は、西ノ台古墳に隣接する方墳の13号墳である。13号墳の築造時期ははっきりとしないが、墳丘からかつて採集されたと伝えられる甕や高坏があり、これらは4世紀代のものと考えられるため、13号墳は4世紀に築造されたとの説がある。また13号墳は5世紀後半に築造されたとの説もある。1990年(平成2年)に行われた西ノ台古墳の範囲確認調査の結果、西ノ台古墳の周溝が13号墳を避けて築造されていたことが明らかとなったため、13号墳は西ノ台古墳に先行して築造されたことは間違いなく、また13号墳の被葬者と西ノ台古墳の被葬者との間に関係性があったことが推測される。 また不動塚古墳に隣接した場所にも円墳の20号墳があって、1994年(平成6年)から1995年(平成7年)にかけて行われた不動塚古墳の調査の結果、やはり不動塚古墳に先行して築造されたことが明らかとなっている。20号墳については6世紀前半に築造されたとの説が出されている。そしてこれまで調査は行われていないが、前方後円墳である16号墳は前方部の高さが後円部に比べて低いため、古墳時代中期以前の古墳である可能性が指摘されている。 いずれにしても板附古墳群では6世紀後半代の築造と考えられる前方後円墳の西ノ台古墳と不動塚古墳以前に古墳の築造が行われていたことは確かであるが、いつ、どのように古墳の築造が始まったのかは現在のところはっきりしていない。 板附古墳群の画期となったのは墳丘長約90メートルの西ノ台古墳の造営である。西ノ台古墳はこれまでのところ埋葬施設の状況が明らかになっておらず、墳丘から検出された埴輪から築造時期が推定されているが、芝山古墳群の殿塚古墳にやや先行する6世紀第3四半期頃の造営が有力視されている。その後墳丘長約63メートルの不動塚古墳が築造された。不動塚古墳の墳丘からは埴輪が検出されないことや横穴式石室の形態などから6世紀末頃の築造と考えられている。6世紀後半から7世紀初頭には九十九里浜に注ぐ木戸川と作田川流域の4ヵ所で規模の大きな前方後円墳の築造が同時進行的に行われており、板附古墳群を造営した首長など、武射地域の首長らが急速にその実力をつけてきたことがわかる。関東地方で律令時代の同一郡内という比較的狭い地域内で複数の大型古墳が築造された例としては、武射郡の他に上野国の群馬郡、新田郡が挙げられる。 そして板附古墳群では610年から620年頃、駄ノ塚古墳が築造された。前方後円墳が築造されていた時期には武射地域の4ヵ所で同時進行的に規模の大きな古墳が造営されていたものが、前方後円墳築造終了後の方墳や円墳が築造される7世紀前半には、板附古墳群以外には木戸川流域の芝山古墳群と大堤・蕪木古墳群の中間に築造された大型円墳である山室姫塚古墳以外、有力古墳の築造が行われないようになり、駄ノ塚古墳の被葬者が武射地域を代表する武社国造となっていったものと考えられる。ただし山室姫塚古墳は直径60メートルを越える大型円墳であり、武社国造の地位が板附古墳群の被葬者に固定していたわけではないと推測される。また群馬県の総社古墳群や千葉県の内裏塚古墳群や龍角寺古墳群では大型の方墳、栃木県内の多くの古墳群では大型円墳など、関東地方の終末期古墳は方墳ないし円墳のいずれかを築造するのが普通であり、律令時代の同一郡内で終末期の大型古墳である方墳と円墳が築造された例は珍しい。これは板附古墳群の被葬者と山室姫塚古墳の被葬者が別系統の首長であったことを示すとともに、結びつきが強かった畿内王権内の勢力が異なっていたことを示すとの説もある。 駄ノ塚古墳の築造後、7世紀中頃までに一辺が約30メートルと、駄ノ塚古墳の約半分の長さの墳丘長を持つ駄ノ塚西古墳が築造された。終末期古墳である方墳、円墳の規模が時代を下るに従って急速に小さくなるのは、全国各地の古墳群で共通に見られる現象であり、板附古墳群では駄ノ塚古墳で古墳の築造は終了したものと考えられる。
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