松根油の製造とは? わかりやすく解説

松根油の製造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 01:55 UTC 版)

松根油」の記事における「松根油の製造」の解説

1944年10月20日最高戦争指導会議において松根油等緊急増対策措置要綱決定され1945年昭和20年3月16日には松根油拡充増産対策措置要綱閣議決定された。原料伐根発掘マツ伐採には多大な労力必要なため、内地残った高齢者女性子供動員された。得られ伐根処理するため大量乾溜装置が必要となり、計画開始前には2,320個しか存在しなかったところ、同年6月までに46,978個もの乾留装置新造された。これらは原料の産地である農山村設置されて、大量松根粗油製造された。その正確な量については不明であるが、『日本海軍燃料史』(上)45ページには「20キロリットル達す」という記述があるという。明宝歴史民俗資料館入り口には当時使用され乾溜缶が展示されている。1942年昭和17年)頃、仙台市御立場町(現・宮城野区東仙台一丁目)の松原街道現在の宮城県道8号仙台松島線)の両端沿って松並木存在していたが、樹齢300年上のもふくむすべての松並木松根油採取のために伐採されている。一方で高知県大方町にある入野松原伐採命令抵抗したことで現在でも残っている。 製造され松根粗油は、各地配置され第一次精製工場軽質油その他の成分分けそのうち軽質油をもとに第二次精製工場水素添加などの処理を施し他の成分加えて航空揮発油製造する計画であった第二次精製工場主力四日市市徳山(現周南)市の海軍第二第三燃料であった。しかし四日市では度重なる空襲により最終製品製造には至らず徳山でも1945年5月14日から生産され500キロリットル完成見たのみである。この松根油確保のために谷田部海軍航空隊練習航空隊学生借り出されている。この任に予備学生14期として従事した、元鹿屋海軍航空隊昭和所属杉山幸照少尉曰く当時「こんなものを掘っていつまで続くもんかなあ……」と思った、と著書述べている。また作業動員され軍人民間人からも疑問感じたという証言多く得られている。 運搬の手間を省くため飛行場内や付近に精製施設設け近隣運び込んで利用する計画もあった。東京の「著名なクラブゴルフ場」に乾溜装置据え付けられ、コース内の松根掘り出し等に進んで参加し模範を示すよう、会員に対して要請なされるというケースもあった。 松ヤニからのテレピン油製造 矢吹陸軍飛行場では使用する航空機燃料機械油を得るため精製施設建設し所在する矢吹町にある大池公園採取した松ヤニ運び込んで精製試みた実用化はされなかったが公園内には現在でも皮を剥がされた残っている。人吉海軍航空隊基地では付近中に精製所を建設していた。

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