松根油の製造
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1944年10月20日に最高戦争指導会議において松根油等緊急増産対策措置要綱が決定され、1945年(昭和20年)3月16日には松根油等拡充増産対策措置要綱が閣議決定された。原料の伐根の発掘やマツの伐採には多大な労力が必要なため、内地に残った高齢者、女性や子供が動員された。得られた伐根を処理するため大量の乾溜装置が必要となり、計画開始前には2,320個しか存在しなかったところ、同年6月までに46,978個もの乾留装置が新造された。これらは原料の産地である農山村に設置されて、大量の松根粗油が製造された。その正確な量については不明であるが、『日本海軍燃料史』(上)45ページには「20万キロリットルに達す」という記述があるという。明宝歴史民俗資料館の入り口には当時使用された乾溜缶が展示されている。1942年(昭和17年)頃、仙台市御立場町(現・宮城野区東仙台一丁目)の松原街道(現在の宮城県道8号仙台松島線)の両端に沿って松並木が存在していたが、樹齢300年以上の松もふくむすべての松並木が松根油採取のために伐採されている。一方で高知県の大方町にある入野松原は伐採命令に抵抗したことで現在でも残っている。 製造された松根粗油は、各地に配置された第一次精製工場で軽質油とその他の成分に分け、そのうち軽質油をもとに第二次精製工場で水素添加などの処理を施し他の成分を加えて、航空揮発油を製造する計画であった。第二次精製工場の主力は四日市市と徳山(現周南)市の海軍第二・第三燃料廠であった。しかし四日市では度重なる空襲により最終製品の製造には至らず、徳山でも1945年5月14日から生産された500キロリットルの完成を見たのみである。この松根油確保のために谷田部海軍航空隊の練習航空隊の学生も借り出されている。この任に予備学生14期として従事した、元鹿屋海軍航空隊昭和隊所属の杉山幸照少尉曰く、当時「こんなものを掘って、いつまで続くもんかなあ……」と思った、と著書で述べている。また作業に動員された軍人や民間人からも疑問に感じたという証言が多く得られている。 運搬の手間を省くため飛行場内や付近に精製施設を設け近隣の松を運び込んで利用する計画もあった。東京の「著名なクラブのゴルフ場」に乾溜装置が据え付けられ、コース内の松根の掘り出し等に進んで参加し模範を示すよう、会員に対して要請がなされるというケースもあった。 松ヤニからのテレピン油の製造 矢吹陸軍飛行場では使用する航空機の燃料や機械油を得るため精製施設を建設し、所在する矢吹町にある大池公園で採取した松ヤニを運び込んで精製を試みた。実用化はされなかったが公園内には現在でも皮を剥がされた松が残っている。人吉海軍航空隊基地では付近の森の中に精製所を建設していた。
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