東條英機暗殺計画
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思想家としての顔も持ち、戦中、石原莞爾、加藤完治、浅原健三らと交遊を持つ。 牛島と木村政彦は東條英機暗殺、東條内閣打倒を企てた陸軍の津野田知重少佐の計画に参加する。これには石原莞爾も大いに賛同する。計画は、東條が乗っているオープンカーに向けて、皇居二重橋前の松の樹上から青酸ガス爆弾を投げ付けて東條を暗殺するというものであったが、賛同していた三笠宮崇仁親王に津野田が計画の細部を打ち明けたところ、東條の暗殺までは容認できなかった三笠宮が憲兵隊に通報した為に津野田と牛島は逮捕された。両名は軍法会議によって裁かれたが、結審が東條内閣崩壊後である1945年3月であった為、津野田は陸軍から免官のうえ、禁固5年、執行猶予2年で釈放。牛島は不起訴。石原は軍法会議に召喚されて始末書の提出のみで終わった。 後に空手家の大山倍達が牛島を慕うようになる。
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東條英機暗殺計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)
戦局が困難を極める1944年(昭和19年)には、複数の東條英機暗殺が計画された。 高松宮と細川護貞によって計画された暗殺計画 9月には陸軍の津野田知重少佐と東亜連盟所属の柔道家の牛島辰熊が東條首相暗殺陰謀容疑で東京憲兵隊に逮捕された。この時、牛島の弟子で柔道史上最強といわれる木村政彦が鉄砲玉(実行犯)として使われることになっていた。軍で極秘裡に開発中の青酸ガス爆弾を持っての自爆テロ的な計画だった(50m内の生物は壊滅するためガス爆弾を投げた人間も死ぬ)。この計画のバックには東條と犬猿の仲の石原莞爾がいて、津野田と牛島は計画実行の前に石原の自宅を訪ね「賛成」の意を得てのものだった。津野田は陸軍士官学校時代に同級生であった三笠宮に計画を打ち明けた。しかし三笠宮は、この計画に困惑して貞明皇后に相談した。それが陸軍省に伝わって憲兵隊が動くことになり、津野田も牛島も逮捕されるという結果となり計画は破綻した。予定されていた計画実行日は東條内閣が総辞職した日であった。但し三笠宮は戦後の保阪正康のインタビューに対し自分から情報が漏れたことは否定している。津野田は大本営への出勤途中に憲兵隊に逮捕されており、その際に憲兵から三笠宮のルートから漏れたと告げられたようであった。また三笠宮によれば当時、療養中だった秩父宮が何度も東條へ詰問状を送っている。東條は木で鼻をくくったような回答を返しており、サイパン陥落時に東條への不満が爆発し、結果として暗殺計画もいくつか考えられたのである。 また、海軍の高木惣吉らのグループらも早期終戦を目指して東條暗殺を立案したが、やはり実行前に東條内閣が総辞職したため計画が実行に移されることはなかった。
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東條英機暗殺計画(津野田事件)
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「津野田知重」の記事における「東條英機暗殺計画(津野田事件)」の解説
津野田は親交のあった柔道家の牛島辰熊と木村政彦と共に自らが計画した東條英機暗殺、東條内閣打倒計画を行おうとした。これには山形県で隠棲していた石原莞爾も大いに賛同する。計画は、東條が乗っているオープンカーに向けて、皇居二重橋前の松の樹上から青酸ガス爆弾を投げ付けて東條を暗殺するというものであったが、内閣打倒までは賛同していた三笠宮崇仁親王に対して津野田が計画の細部を打ち明けたところ、東條の暗殺までは容認できなかった三笠宮が憲兵隊に通報した為に津野田と牛島は逮捕された。両名は軍法会議によって裁かれたが、結審が東條内閣崩壊後である1945年(昭和20年)3月であった為、津野田は陸軍から免官のうえ、禁固5年、執行猶予2年で釈放。牛島は不起訴。
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