東條英機の暗殺計画とは? わかりやすく解説

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東條英機の暗殺計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 23:05 UTC 版)

石原莞爾」の記事における「東條英機の暗殺計画」の解説

昭和19年1944年6月柔道家牛島辰熊津野田知重少佐は、東條英機首相暗殺企てた。共に東亜連盟石原莞爾師事していた。 津野田は、大本営参謀部三課の秘密文書読み予想上の日本軍惨敗ぶりに愕然とし、牛島辰熊相談した。「このままでは国民全滅だ」と悟った2人は、東條退陣させて戦争止めるために、皇族への「大東亜戦争現局に対す観察」という献策書を書き上げ三笠宮高松宮らを通じて直接天皇渡してもらうことにした。 2人は、献策書を持って石原蟄居する山形県訪ねた石原献策書を通読すると「一晩考えさせてくれ」と言って2人を泊まらせた。その献策書の欄外には、はっきりと「非常手段止むを得ざる時には東條斬ると書かれていたからである。次の日の朝6時津野田と牛島座敷通した石原は、「今の状態では万事手遅れだ」と言って赤鉛筆取り献策末尾に「斬る賛成と書いた。 石原賛意得た津野田と牛島は、勇んで東京戻り暗殺方法について話し合った結果習志野ガス学校極秘開発されていた青酸ガス爆弾茶瓶」を使い牛島辰熊実行することになった計画は、東條乗っているオープンカー向けて皇居二重橋前樹上から青酸ガス爆弾投げ付け東條暗殺するというものであったが、内閣打倒までは賛同していた三笠宮崇仁親王に対して津野田が計画細部打ち明けたところ、東條暗殺までは容認できなかった三笠宮憲兵隊通報した為に津野田と牛島逮捕された。両名軍法会議によって裁かれたが、結審東條内閣崩壊後である1945年昭和20年3月であった為、津野田は陸軍から免官のうえ、禁固5年執行猶予2年釈放牛島不起訴石原軍法会議召喚されて、始末書提出のみで終わった津野事件)。 後年作家増田俊也は、著書木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の中で、この時牛島弟子木村政彦鉄砲玉実行犯)として使おうとしていたと記した

※この「東條英機の暗殺計画」の解説は、「石原莞爾」の解説の一部です。
「東條英機の暗殺計画」を含む「石原莞爾」の記事については、「石原莞爾」の概要を参照ください。

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