東條英機との対立と参謀次長退任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 01:18 UTC 版)
「多田駿」の記事における「東條英機との対立と参謀次長退任」の解説
8月に石原莞爾が満州から帰国したのを機に、多田と拡大派の陸軍次官・東條英機との対立が深刻化する。元来、多田は皇族総長の下で実務を取り仕切る「大次長」として、陸軍次官を飛ばして直接、板垣征四郎陸相(杉山の後任である板垣は陸士の1期後輩であり、仙台陸軍地方幼年学校の同窓で親しい関係にあった)と接触することが多く、東條次官から不快に思われていた側面もあったが、12月に石原が閑職の舞鶴要塞司令官をあてがわれると、この人事を巡って多田と東條が決定的に対立したのであった。多田は板垣陸相に東條の更迭を要求、対する東條も板垣に多田の更迭を交換条件として抵抗した。結局、板垣の裁定で喧嘩両成敗、両者更迭となった。しかし、多田が第3軍司令官に転出となったのに対し、東條は航空総監へ“栄転の形”となったため、多田は憤慨し板垣と絶縁状態になったという。
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