東工業団地の開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 02:06 UTC 版)
「福島の原子力発電所と地域社会」の記事における「東工業団地の開発」の解説
発電所の建設以前、大熊町の産業は地場資源をベースにした木材、木製品、食料製造業などの小規模な事業所があるだけで他地域からの企業進出も無かった。そこで大熊町は1966年3月農工一体での発展を図り流出する余剰労働力を吸収するため「大熊町工場誘致条例」を制定したが、実際に誘致できたのは県の開発課があっせんしたカーラジオを製造する電子機器メーカー1社で、それも1980年6月には倒産してしまう。また、発電所建設関連の労働需要が極端に増大した結果、町外からも労働力を受け入れるほどの状況となり、工場誘致条例は1970年に廃止された。 その後、発電所が6号機までひとまず完成を見た1979年頃になると、次の施策をどうするかが課題として浮上してくる。このような問題は当時「ポスト原発」と呼ばれ、大熊町は工場の誘致活動に舵を切った。解決策として、町は農村地域工業導入促進法や同法に基づく県の工業計画を材料に再び1979年4月、大熊町農村地域工場誘致条例を制定する。なお、県による計画はこれに先立つ1977年に策定され、大熊東工業団地74万m2が双葉工業地区として制定、導入するべき業種としては下記のような無公害・省資源型が想定された。 一般機械器具製造業 金属製品製造業 食料品製造業 上記工業規模は1977年までに用地31万6000m2、雇用期待人員2300名とされた。計画は1981年までに地権者たちの同意を得て20万1030m2の買収が完了している。造成工事は1982年度中に完了している。『経営コンサルタント』での遠藤正の発言によると、1970年代後半には日産ディーゼルが輸出用トラック組み立て工場を検討したが、自社工場を焼失した損害の穴埋めに追われる内に立ち消えとなり、その後横浜ゴムがテストコースの設置を申し出たが雇用につながらないため町の方から断った。この他ホンダも交渉に訪れていたという。結局、1981年当時引合いに応じて工場建設を実施したのは中堅製薬メーカー1社に過ぎなかった。町長の要望としては人口規模を考慮し、男子中心に1000名程度の雇用が可能な工場施設の誘致を検討していた。その後、『大熊町史第1巻』刊行までに製薬メーカー3社が進出を決定し、16万5000m2の敷地を使用している。東工業団地整備に当たり資金としては電源三法交付金、町の財源等が投じられた。3社合計で将来的には300名の雇用を生み出すとされた。 ただし、原子力発電所ブームに雇用の大半が吸収されたために、町内全体の事業所はそれほど数を増やすことはなく、規模も零細が多かった。
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