東北楽天ゴールデンイーグルス監督退任後
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「野村克也」の記事における「東北楽天ゴールデンイーグルス監督退任後」の解説
2010年からはサンケイスポーツの野球評論家に復帰、テレビ・ラジオではフリーの野球解説者として出演した。 2010年1月24日には、故郷網野や母校が在る峰山町(平成の大合併で周辺自治体とともに合併し京丹後市)を含んでいた京都5区選出代議士谷垣禎一が総裁就任直後の政権奪還を目指す野党第一党自由民主党の党大会で講演をした。講演では「負けるときは負けるべくして負ける。巻き返しに向けて頑張れ」と自民党の政権奪還に向けて叱咤激励し、「負ければ反省するが、勝つと反省しない。そこに落とし穴があった」と第45回衆議院議員総選挙敗北の要因を野村なりに分析し語った。また、自民党をかつて「球界の盟主」と言われた読売ジャイアンツに例え「上に立てば必ず足を引っ張られることを忘れず、気を引き締めて捲土重来、頑張ってください」と応援の言葉を述べた。また、小泉進次郎(衆議院議員初当選から半年足らず)については「実にしっかりしている」と述べ、その上で「球界では親子2代で名選手の例がない。どうして政界と違うのかねぇ」と述べた。 S☆1で共演していた枡田絵理奈は「野村さんの解説は本当にわかりやすく、ひとつひとつのプレイをとてもていねいに教えてくれます。監督は、野球をあまりよく知らない私に、野球の〝楽しさ〟や〝奥深さ〟を教えてくれる先生でもありました」と言っていた。2011年の日本シリーズでは第2戦、第5戦をテレビ東京系列で、第7戦をTBS系列でゲスト解説を担当した。中継放送終了後のS☆1も生出演した。 2012年12月29日、契約満了により楽天名誉監督を退任。2020年現在までに、プロ野球界で名誉監督の称号を贈られたのは、野村と長嶋茂雄(巨人終身名誉監督)のみである。 2013年4月、日本体育大学児童スポーツ教育学部客員教授に就任。大学で講演など実施。2013年12月16日に有馬記念レセプションパーティーにスペシャルトークショーのゲストで出演し、司会の徳光和夫に対して監督時代から鬱積した不満をぶちまけるようにストレートな毒舌を浴びせたこともある。 また、野村は監督在任中の1990年から、地元の竹野郡網野町(現・京丹後市)に、三冠王達成時のペナントや、MVPのトロフィーなど約80点の記念品を寄贈してきた。網野町では記念館の建設を計画したもの頓挫し、その後、これらの記念品は京丹後市内で塩漬け状態となっていた。地元住民や有識者からは記念館建設を望む声が強いものの、京丹後市は予算不足を理由に及び腰とされ、野村は「自分の記念品を邪魔物扱いしているのか」とぼやいていたという。しかし、2018年3月にアミティ丹後(丹後地域地場産業振興センター)に「野村克也ベースボールギャラリー」が開設され、後年のヤクルト監督時代なども含めた野村からの寄贈品を中心に展示している。 2017年12月8日、妻の沙知代が急死。当日の自宅前での会見では「突然のことでびっくりしています」と憔悴した表情で述べた。 2019年、ヤクルト球団50周年を記念して行われたOB対抗戦「スワローズドリームゲーム」に、1990年代、自らが監督として率いた選手らで構成する「GOLDEN 90’s」の監督として出場し、4回裏、自ら打席にも立つ。その際、野村は体力が衰えていたため、当時の教え子であった古田、真中、川崎、池山らに支えられ、初球を空振りしたところで申告敬遠を告げられた。 2020年になってからもヤクルトやシダックス野球部のOB会に出席。かつて指導したヤクルト新監督の高津臣吾や日本ハム新任コーチの武田勝にエールを送っており、特にヤクルトに対しては「ヘッドコーチ? 喜んでやりたいと思います」と冗談めかしながらサポートにも意欲を見せていた。1月21日には前年10月に死去した金田正一のお別れの会に参列し、献花した。さらにその後、1月25日に催されたシダックス野球部OB会に出席して「愛がなければ人は育たない」とスピーチしたのが公の場に於ける野村の最後の姿となった。
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