東ティモール独立後とは? わかりやすく解説

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東ティモール独立後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 22:36 UTC 版)

ジョゼ・ラモス=ホルタ」の記事における「東ティモール独立後」の解説

独立向けて国際連合東ティモール暫定行政機構(UNTAET)による統治下で行われた制憲議会選挙では、選挙直前にCNRTは解散しホルタはいずれ政党にも加わらず出馬もしなかった。2002年独立した東ティモール外務大臣に就任2006年7月10日より退陣したマリ・アルカティリ後任としてグスマン大統領より首相に指名され就任国防大臣兼任)。のちに大統領選立候補し与党フレティリン候補フランシスコ・グテレス党首との決選投票制し2007年5月20日グスマン初代大統領の後をうけて、第2代大統領就任した2007年6月30日行われた国民議会選挙では、グスマン党首率い東ティモール再建国民会議(CNRT、先述ティモール民族抵抗評議会とは別)が18議席獲得し議会第2党躍進フレティリンはかろうじて第1党であったが、65議席21議席大幅に議席減らした。この結果踏まえ与野党による挙国一致内閣目指したが、東ティモール独立革命戦線マリ・アルカティリ書記長は、これに異を唱えた。一旦はその考え受け入れたが、CNRT率い野党連合フレティリンは、何週間論争繰り返した合意には至らなかった。選挙により決定的な差がつかなかったことも要因とされる。これにより、野党連合による連立政権組閣することを決断8月6日グスマン党首首相に指名し組閣指示8月8日グスマン首相に就任した。アルカティリはこれを憲法違反主張し法的手段闘う述べフレティリン彼の決定非難している。 2008年2月11日暗殺計画により銃撃され重傷負った銃撃戦により護衛1人負傷し、アルフレド・レイナド(英語版)を含む反乱軍兵士2人死亡したホルタディリにあるオーストラリア軍基地搬送され、さらに治療のためオーストラリアのロイヤル・ダーウィン・ホスピタルに移され何度も手術を受け回復2010年3月15日明仁天皇会見し日本の支援対し謝意表し3月16日には鳩山由紀夫内閣総理大臣会談し、この時も日本の支援謝意表明したまた、UNMIT事務総長副特別代表を務め15日急死した川上久に哀悼の意表した3月19日広島市原爆資料館原爆ドームなどを視察したまた、広島平和記念公園にも趣き、同公園内にある原爆の子の像持参した千羽鶴捧げた2012年3月17日行われた大統領選挙ではインフラ整備治安対策などでグスマン意見対立してCNRTの支援得られず、また全国的な選挙運動も行わなかったことから第1回投票得票率17.99%に留まりタウル・マタン・ルアク敗れたこの年法政大学より名誉博士学位授与される2013年1月国連アフリカ西部ギニアビサウ問題担当する事務総長特別代表に指名される2022年1月同年行われる予定大統領選挙英語版)への出馬表明3月19日の第1目投票では46.58%の票を獲得して第1位となり、2位となった現職フランシスコ・グテレス(22.16%)と共に4月19日決選投票進出。62.1%の票を獲得して当選し5月20日に再び大統領就任することとなった

※この「東ティモール独立後」の解説は、「ジョゼ・ラモス=ホルタ」の解説の一部です。
「東ティモール独立後」を含む「ジョゼ・ラモス=ホルタ」の記事については、「ジョゼ・ラモス=ホルタ」の概要を参照ください。

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