東ティモール独立後
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「ジョゼ・ラモス=ホルタ」の記事における「東ティモール独立後」の解説
独立に向けて国際連合東ティモール暫定行政機構(UNTAET)による統治下で行われた制憲議会選挙では、選挙直前にCNRTは解散し、ホルタはいずれの政党にも加わらず、出馬もしなかった。2002年に独立した東ティモールで外務大臣に就任、2006年7月10日より退陣したマリ・アルカティリの後任としてグスマン大統領より首相に指名され就任(国防大臣を兼任)。のちに大統領選に立候補し、与党・フレティリン候補のフランシスコ・グテレス党首との決選投票を制し、2007年5月20日にグスマン初代大統領の後をうけて、第2代大統領に就任した。 2007年6月30日に行われた国民議会選挙では、グスマン党首率いる東ティモール再建国民会議(CNRT、先述のティモール民族抵抗評議会とは別)が18議席を獲得し議会第2党に躍進。フレティリンはかろうじて第1党であったが、65議席中21議席と大幅に議席を減らした。この結果を踏まえ与野党による挙国一致内閣を目指したが、東ティモール独立革命戦線のマリ・アルカティリ書記長は、これに異を唱えた。一旦はその考えを受け入れたが、CNRT率いる野党連合とフレティリンは、何週間も論争を繰り返したが合意には至らなかった。選挙により決定的な差がつかなかったことも要因とされる。これにより、野党連合による連立政権を組閣することを決断。8月6日にグスマン党首を首相に指名し組閣を指示、8月8日にグスマンは首相に就任した。アルカティリはこれを憲法違反と主張し法的手段で闘うと述べ、フレティリンは彼の決定を非難している。 2008年2月11日に暗殺計画により銃撃され、重傷を負った。銃撃戦により護衛の1人が負傷し、アルフレド・レイナド(英語版)を含む反乱軍兵士2人が死亡した。ホルタはディリにあるオーストラリア軍の基地に搬送され、さらに治療のためオーストラリアのロイヤル・ダーウィン・ホスピタルに移され、何度も手術を受け回復。 2010年3月15日、明仁天皇と会見し、日本の支援に対し謝意を表し、3月16日には鳩山由紀夫内閣総理大臣と会談し、この時も日本の支援に謝意を表明した。また、UNMIT事務総長副特別代表を務め、15日に急死した川上隆久に哀悼の意を表した。3月19日、広島市の原爆資料館や原爆ドームなどを視察した。また、広島平和記念公園にも趣き、同公園内にある原爆の子の像に持参した千羽鶴を捧げた。 2012年3月17日に行われた大統領選挙ではインフラ整備や治安対策などでグスマンと意見が対立してCNRTの支援を得られず、また全国的な選挙運動も行わなかったことから第1回投票で得票率17.99%に留まり、タウル・マタン・ルアクに敗れた。この年、法政大学より名誉博士の学位を授与される。 2013年1月、国連のアフリカ西部ギニアビサウ問題を担当する事務総長特別代表に指名される。2022年1月、同年に行われる予定の大統領選挙(英語版)への出馬を表明。3月19日の第1目投票では46.58%の票を獲得して第1位となり、2位となった現職のフランシスコ・グテレス(22.16%)と共に4月19日の決選投票に進出。62.1%の票を獲得して当選し、5月20日に再び大統領に就任することとなった。
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