東ティモールの部分的開放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 03:59 UTC 版)
「サンタクルス事件」の記事における「東ティモールの部分的開放」の解説
1980年代後半から高まり始めた、東ティモールの独立を求める国際世論に、インドネシアは方向転換せざるをえなくなった。また、独立派の武装組織ファリンティルの掃討を続けてきたインドネシア国軍内部にも、強硬路線に行き詰まりを感じる声が広がり、懐柔作戦への方向転換が為されたが、独立運動の鎮静化はできなかった。このような背景からインドネシア政府は、1989年1月1日より東ティモールを他州並みに開放するという政策を実施した。部分的開放は13県のうち、国軍が治安に自信をもてない東部5県を除く8県で実施され、インドネシア人と東ティモール人の往来が基本的に自由となった。しかし、往来の制限や検問は頻繁に行われ、外国人は許可なくして訪問できないままだった。 1989年10月、ローマ法王・ヨハネ・パウロ2世が東ティモールを訪問した。バチカンは、ポルトガルの東ティモール撤退から、東ティモールをインドネシアの教区ではなくバチカンの直轄区としていた。インドネシアは、法王の訪問をインドネシアと教区を統合するための契機と捉えていた。逆に東ティモールの若者たちは、これを独立アピールの格好の舞台と捉えたのだった。法王はインドネシア国軍による住民虐殺地として有名なディリ郊外のタシトルで約10万人を前にミサを行った。ここで、約20人の若者が横断幕を掲げて祭壇前に迫り、治安当局に鎮圧された。また1990年1月17日には、ディリを訪問していたアメリカ合衆国のジョン・モンジョ駐インドネシア大使が宿泊していたホテルに、80人から90人の若者が押しかけ、拡声器を使って約1時間の対話を成功させるなど、次々と国際社会にアピールをしかけた。
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