来園から関東大震災まで
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上野動物園でのカバ飼育の始まりは、1911年(明治44年)にさかのぼる。最初に来園した子カバは、1907年(明治40年)まで上野動物園の監督(最高責任者)を務めていた動物学者の石川千代松とドイツの動物商カール・ハーゲンベックとの通算6回目で最後となる取引によって購入されたもので、カバとしては日本への初渡来となる個体であった。子カバは生後1年半のオスで、当時の巡査の初任給が12円から13円だった時代においての値段は5,401円4銭で、運賃や保険料などを含めると約7,000円の費用がかかった。子カバは2月23日に上野動物園に到着した。ただし、飼育と展示だけではなく繁殖までを視野に入れていた石川の意図にもかかわらず、つがいではなくオスの子カバを1頭しか購入できなかった。ただしこの子カバは、狭い運動場や2間四方(3.6メートル四方)と小さい上に浅いプールという劣悪な飼育環境の上に、本来群れで生活するカバの習性に反して孤独な状態におかれたことなどが重なって、1912年(大正元年)11月21日にわずか3歳で死亡した。 1919年(大正8年)、2番目のカバが京城の昌慶苑動物園から来園することになった。当時の上野動物園は宮内省の所管だったため、同じく宮内省所管の昌慶苑動物園からカバを「贈呈」というかたちで移動させる話が進んだ。昌慶苑動物園では、上野動物園より1年遅れの1912年にハーゲンベックからカバをつがいで購入した。このカバのつがいは1914年から第2次世界大戦中に至る30年ほどの間に、12頭以上の子をもうけていた。贈呈されることになったカバはメスで、1917年9月生まれの子であった。 1919年(大正8年)7月末、上野動物園の黒川義太郎は、新橋の運送業者と運搬の手はずを整えた上でカバを受け取るために京城まで赴いた。しかし、黒川が8月1日に昌慶苑動物園に到着してみると、カバの脱出騒動が起こっていた。騒動の原因となったのは上野動物園に運搬予定のカバの母親で、当時妊娠中だったために気が荒くなっていたという。この騒動は夜中になってやっと収まり、母カバはもとのプールに戻った。実はこのとき、東京で手配し船便で仁川経由で運搬していたカバ用輸送箱が予定の日時までに京城に到着しなかったため、黒川は昌慶苑動物園側への言い訳を考えながらカバ受け取りに赴いていたという。後に黒川は自著で「脱出事件で、ボロも出ないで済んだ」と述べている。 8月2日にカバは上野行きの輸送箱に収容され、8月7日に京城を出発した。運搬は鉄道と関釜連絡船によって行われ、8月13日に上野動物園に到着した。このカバは京城の1字をとって「京子」と命名された。京子は健康な個体で、順調に成長していった。 1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生して東京は甚大な被害を受けた。上野恩賜公園は被災した市民たちの避難場所となり、上野動物園も即日閉園せざるを得なかった。上野動物園自体の被害は少なく、動物たちも来園者たちも直接負傷するようなことはなかった。ただし、臆病な性格の京子は怯えきってプールの底に潜ったままになってしまい、ときおり呼吸のために水面から鼻面を出す以外は全く姿を見せなくなった。飼育担当者たちがこのまま餓死してしまうのではないかと気をもんでいたところ、京子は大震災発生から3日後の朝に水面から顔を出して、ようやくエサを食べて無事な姿を見せた。
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