村社への昇格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/17 14:30 UTC 版)
公認される以前より、神事の都度、歌志内神社の社掌だった新井関次郎を招聘して祭事を執行してきた。無格社に公認され、村が順調に発展すると、明治43年(1910年)の暮れに新井は芦別神社の正式な社掌となり、神職が常駐する神社となった。2012年現在も芦別市内では唯一神職がいる神社である。 この頃、村の人口は7500人に達し、氏子も218戸まで増加した。鉄道の敷設と下芦別駅開業が決まり、木材景気の高止まりや三菱炭鉱の開山も控えてさらなる村の発展が見込まれた。これらによって村社認定の要件を得たため、明治45年(1912年)4月に昇格の申請を行った。公認に先立ち、神体を改めるために伊勢神宮に分身申請を行なって、7月に新たな神体を下賜された。 ところが公認が内定し、新神体が歌志内まで到着した7月中旬、明治天皇が「御不例」(体調を崩し重体に陥った)となり、程なくして「御登龍」(崩御)してしまった。このため神体は歌志内神社に留め置かれ、大葬が営まれた後の9月22日に新しい神体の奉遷祭を行った。神輿、神馬、神職馬、長御幣、獅子、旗43本の行列で祝ったと記録されている。 明治帝の崩御によって公認の許可は大幅に遅れ、村社列格が認められるのは大正3年(1914年)の2月にずれこんだ。この年は明治天皇の遥拝式があったため、春祭は延期されて6月7日に催され、花相撲や曲馬、芸妓の踊りや芝居が夜まで続いた。 芦別村はその後も好況に押されて例祭も華やかに行われ、活動写真の上映、越中踊り(氏子である開拓者は富山出身者が多い)、獅子踊り、歌舞伎などが催され、当時の小樽新聞(北海道新聞の前身)でも『空前の盛況』と報じている。 明治の終わりには220戸ほどだった氏子の数は、大正の終わり頃には1550戸まで増えている。これは村社列格と国家神道統制に伴って芦別村全戸を氏子と公称していたためであるが、それでも実際の氏子数は420戸まで増えていた。
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