李衡
もともと兵卒の家の子であったが、漢代末期、呉に移住して武昌の庶民になった。羊衜が人物を見る目があると聞いて彼の元を訪れたところ、羊衜は「多難な世にあって尚書の激務に耐えうる郎の才覚をお持ちじゃ」と告げた《孫休伝》。また羊衜は自分の女を李衡に嫁がせた《孫休伝集解》。 当時、校事の呂壱が権勢を握って大臣でさえ口出しできないほどであったが、羊衜はみなと一緒に「李衡でなければ懲らしめられる者はおりませぬ」と郎に推挙した。孫権に拝謁すると、李衡は呂壱の悪事を数千語にわたってあげつらったので、孫権は恥ずかしそうな様子を見せた。数ヶ月後、呂壱が誅殺され、李衡は大変なお目こぼしを受けた《孫休伝》。 のちに太傅諸葛恪の司馬となり、いつも役所の事務を取り仕切っていた《孫休伝》。諸葛恪の使者として蜀へ赴き、呉と蜀とで同時に魏を攻撃しようと姜維を説得している《諸葛恪伝》。 諸葛恪が誅殺されると丹陽太守への出向を願い出た。そのころ琅邪王孫休が丹陽郡の役所に住まいしていたが、妻の習氏がそれを諫めるのも聞かず、李衡は法律に則って彼をたびたび取り締まった。孫休はそれをうとましく思い、朝廷への上表の結果、会稽への移住を許された《孫休伝》。 のちに孫休が帝位に昇ると、李衡は復讐を恐れて「そなたの言葉を聞かなかったため、こんなことになってしまったよ」と習氏に告げ、魏へ亡命しようとした。しかし習氏は「なりませぬ。君はもともと庶民の身でしたのを先帝のお引き立てを蒙ったのですよ。もう何度も無礼を働いているのに今さら猜疑心を起こし、保身のために逃亡するなら、北方へ帰っても郷里の人々に何の面目が立ちましょう」と反対した《孫休伝》。 李衡「どうすればよかろう」、習氏「琅邪王さまはもともと善事を好んで名声を慕われるお方。いま天下に自分を誇示しようとお考えですから、私怨によって君を殺すことなど決してなさらないことは明らかです。獄舎に自首して以前の過失を列挙し、処罰を受けたいとの態度をお示しになるのがよろしゅうございましょう。そうすれば、ただ生き延びるのみならず、かえってご加増を賜ることでしょう。」《孫休伝》 李衡が妻の言う通りにすると、孫休は「かつて(管仲が斉桓公の)鉤を射、(披が晋文公の)袖を斬った例もある。主君の元にあれば主君のために尽くすものだ。李衡を郡に戻して疑心を抱かせぬように」と詔勅を下し、さらに威遠将軍の官位を加増し、棨戟を下賜した《孫休伝》。 李衡はいつも家業を営みたいと考えていたが、そのつど習氏が反対していた。そこで妻に内緒で武陵郡龍陽の汎洲に食客十人を住まわせ、みかん千株を植えさせた。李衡は臨終を迎え、「お前たちの母が家業を営むのを反対してのう。それでこんなに貧乏なのだよ。じゃが吾の故郷には木の奴隷が千人おって、衣食は要求せぬのに毎年絹一匹づつ献上してくるので、それで用を足すのがよかろう」と子供たちに遺言した。みかんが成長すると、毎年、絹数千匹の利益を上げて家計を潤した《孫休伝》。後年、汎洲はみかん畑にちなんで「橘洲」「柑洲」とも呼ばれるようになった《孫休伝集解》。 【参照】姜維 / 習氏 / 諸葛恪 / 孫休 / 孫権 / 羊衜 / 呂壱 / 会稽郡 / 漢 / 魏 / 呉 / 襄陽郡 / 蜀 / 丹楊郡(丹陽郡) / 汜洲(汎洲・橘洲・柑洲) / 武昌県 / 武陵郡 / 龍陽県 / 琅邪国 / 威遠将軍 / 王 / 校事 / 尚書 / 太守 / 太傅 / 郎 / 棨戟 / 人物之鑑(人物を見る目) / 府(役所) |
李衡
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李 衡(り こう、生没年不詳)は、中国三国時代の呉の官僚。字は叔平。荊州襄陽郡の人。妻は習英習。
生涯
兵戸の出身である。後漢の末、武昌に移住し、庶民として暮らした。羊衜から、乱世に尚書の劇曹郎に就くだろうと評価された。襄陽の名族習竺はこのことを聞いて、自分の娘の英習を与えて娘婿として迎えた。
後に羊衜らの推挙により郎中として孫権に仕えた。校事の呂壱は苛烈な性格で、多くの重臣が罪に陥れられた。李衡は孫権に会うたびに、呂壱の専横を訴えた。このため孫権は恥じ入った。数ヶ月後、呂壱は悪事が露見して処刑されている。李衡は孫権からの大抜擢を受けた。
建興の初、諸葛恪の旗下に入り司馬に任じられた。建興2年(253年)、使者として蜀漢に派遣され、当時軍権を握っていた姜維に北伐を説得した。やがて諸葛恪が誅殺された後、李衡は地方に任官を申し入れると、丹陽太守となった。この頃琅邪王である孫休が丹陽に住んでいる。李衡は、孫休をしばしば厳しい態度をとったという。妻はそのたび李衡を諫めたが、李衡は従わなかった。
永安元年(258年)、孫休が即位すると、懼れた李衡が魏に逃げるつもりだったが、妻は「こんなことをしてはいけない。あなたが先帝の恩を受け、中原の人は私たちをどう見ているのか?また琅邪王は名誉を重視する人物で、個人のことによる嫌忌であなたを殺さない事は明白です」と諫めた。李衡がこの忠告に従って、自らを縛って出頭してきたため、孫休は李衡に咎めなく詔を出し李衡を釈放させ、郡に戻らせた。逆に棨戟を授与するとともに、威遠将軍に任命された。
李衡は荘園経営を始めたが、妻が反対したため、密かに召使に命じて武陵の泛洲に屋敷に建造し、屋の周りには千株の蜜柑の木を植えた。死ぬ前に秘蔵の財は息子たちに教えたという。死の20日後、息子はそのことを母に告げると、「これは秘密ではない。 数年前のある日、使用人は突然いなくなった。その時点でこのことに気づいた。実はね、この世の中で一番心配することのは道徳がないことで、お金がないわけではない。高貴な人物となった同時に貧乏生活を送るに越したことはない。なぜこれらの蜜柑が必要ですか?」と答えた。呉の末期に李家が豊かとなった。東晋の咸康年間まで、その遺跡や枯れ木が残っていた。
参考文献
- 『三国志』引『襄陽記』
- 『襄陽耆旧伝』
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