朝鮮人労働者と争議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/29 10:15 UTC 版)
前述の通り、1918年から朝鮮人労働者を積極的に雇用した同社では、1924年(大正13年)3月末時点で、本社工場に199名、野村分工場に212名、春木分工場に219名、堺分工場に96名の朝鮮人女工が在籍していた。彼らのほとんどが「事業所同居者」つまり住み込みで労働に携わっており、通勤者はわずかに本社工場に18名、野村分工場に15名、春木分工場に39名であり、堺分工場には1名もいなかった。春木工場の立地した泉南郡北掃守村大字春木、本社工場に隣接した岸和田市並松町には、同社の社宅が建てられ、多くの朝鮮人労働者もそこに生活した。1928年(昭和3年)6月末時点での岸和田市内に在住の朝鮮人は1,478名であり、うち1,253名という圧倒的多数が女性であった。 朝鮮人女工を同社が募集した理由は、第一次世界大戦による好景気により、国内の女工が不足したことが挙げられる。出身別では、慶尚南道、済州島出身者が多数を占めていたという。大阪から済州島への定期航路が設けられて2年が経過した1925年(大正14年)2月時点では、本社工場に300名、野村分工場に270名、春木分工場に500名、堺分工場に128名に朝鮮人女工の数は増えている。多くの労働者は、各工場の合宿所・寄宿舎、あるいは社宅で生活していたが、衛生環境が悪く、1926年(大正15年)7月には本社工場寄宿舎で3名のアメーバ赤痢が発生している。 1922年7月に起きた同社での最初の争議は、春木分工場の朝鮮人労働者全員(男性52名、女性219名)がストライキに参加したものであった。1928年8月6日には、本社工場約300名の朝鮮人女工のうち約100名がストライキを打ったが、同日夕刻には解決している。翌1929年(昭和4年)8月にも本社工場でストライキが行われ、これに同工場の朝鮮人女工約200名が参加した。 1930年5月3日、不況を背景にした夜業の廃止等の政策による実質賃金4割ダウンに反発した、堺工場の日本人・朝鮮人両労働者198名がストライキを決議、翌日からストライキに突入した。同月15日の堺工場襲撃、同月27日の春木工場襲撃を経て、同年6月13日に妥結、闘争は労働者側の敗北に終わっている。これがもっとも有名な「岸和田紡績堺分工場争議」である。争議終結後の同月25日付の『大阪朝日新聞』の報道では、当時の社長・寺田甚与茂が夜業を廃止して生産抑制、賃金カットを通じて「万難を排し閉鎖だけはせぬよう、食いしばる覚悟である」と述べている。 金賛汀の取材によれば、本社工場に隣接した並松町には、1919年(大正8年)前後に倒産したマッチ工場の廃墟があり、朝鮮人労働者たちはそこを占拠して住居をつくり、そこから工場に通っていた者もいたという。春木の「鮮人社宅」と呼ばれたものや、これが同社の社宅跡とともに、やがて「朝鮮町」を形成するようになったとされる。2014年(平成26年)現在の並松町は一般的な住宅街であり、同社創立者・寺田甚与茂の弟である寺田元吉が1874年(明治7年)に開業した寺田酒造有限会社、株式会社元朝も同町内に現存している。
※この「朝鮮人労働者と争議」の解説は、「岸和田紡績」の解説の一部です。
「朝鮮人労働者と争議」を含む「岸和田紡績」の記事については、「岸和田紡績」の概要を参照ください。
- 朝鮮人労働者と争議のページへのリンク