朝鮮人労働者と事故の慰霊祭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 00:20 UTC 版)
「荒金鉱山」の記事における「朝鮮人労働者と事故の慰霊祭」の解説
1943年(昭和18年)9月10日に起きた鳥取地震の際に、大量の鉱泥を集めていた堰堤が決壊し、約4万3千立方mの鉱泥が流出した。泥流は、堰堤直下にあった朝鮮人労働者の飯場や荒金集落を直撃し、朝鮮人労働者とその家族28名と日本人37人の合計65人が犠牲となった。鉱山労働者や地元住民が2ヶ月にわたって遺体の収容作業を行ったが、現在も32〜33名の遺骨が鉱泥の下に埋まったままになっている。特に朝鮮人労働者の飯場は堰堤直下にあったために泥流の一番下に埋まっていると考えられ、発見された朝鮮人犠牲者の遺体はわずか2体のみだった。 1948年(昭和23年)に日本鉱業株式会社によって、鳥取地震の際の大事故の慰霊碑が建立され、地元住民たちによって毎年9月10日に慰霊祭が開かれるようになった。1972年(昭和47年)以降は、「荒金鉱山に眠る、韓国・朝鮮人・日本人を祀る会」の関係者や地元住民によって慰霊祭が行われてきた。1988年(昭和63年)には関係者の努力によって、犠牲者の祖国を遠望する位置に慰霊碑が移築された。 1990年(平成2年)、鉱泥から掘り出されて地元の寺におさめられていた朝鮮人犠牲者1名の遺骨が、韓国の国営墓地「望郷の丘」(忠清南道天安市)に納骨された。 1990年代になると、在日本大韓民国民団鳥取県本部と在日本朝鮮人総連合会鳥取県本部が共同で喪主をたて、朝鮮の伝統的儒教式に則った祭祀(チェサ)を行って、事故の犠牲者を慰霊するようになった。1997年の55回忌からは5年に一度の共催となったが、「事故を風化させたくない」との思いから韓国民団が単独で開催する年もある。
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