服飾と化粧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 20:52 UTC 版)
長い戦乱のため、乱れていた冠服制度は初唐になって整えられた。黄色は皇帝専用の色となり、皇帝は黄袍を着て、皇族と百官は紫・緋・緑・青色の袍服を位階により決められ、着ることを定められた。民の衣は、白や黒が基本であった。貴族や官僚の衣は絹が使われ、民は褐と呼ばれるズボン形式の麻の衣を着た。百官はまた位階により定められた冠や魚袋、笏をつけて朝廷に出仕した。 男性の服飾は、従来のゆったりとした服飾に代えて、胡服と呼ばれた北朝で流行していた北方民族の衣を源流とする衣が中心となった。頭には、襆頭という頭巾が流行し、身分に関わらずつけていた。最初の頃は1枚の羅の頭巾で頭の上を包んでいたが、その後は別の頭巾を加え、それを桐、蔓、草などで固く作り、次第に固定した形の帽子となった。胡服は狭い袖の上着、ズボンで、革帯で締め、長靴で乗馬しやすいものであった。また、北方民族の影響を受けた丸襟の袍衫(団衿とも呼ばれる)が好まれ、布製に代わり、革の履が使用された。また、西域から来た胡服を着ていたという説もある。 女性の服飾は、胡服の流行や外国の服飾が導入され、国家に関係なく自由であり、色とりどりに染色したものが使われ、絶え間なく、移り変わっていった。大多数は、短い襦か長い衫をつけ、下半身に胸や腹まで引き上げる長裙をつける襦裙を着ていた。他に、襦裙の上半身の上に着る半臂という半袖の衣が好まれた。また、披帛という薄く軽い絹の布を肩にかける装飾品も使われ、先の尖った履をはいた。胸元まで露出することがあり、開放的なものであった。襦裙は時代がすすむとともに、ゆるやかなものに変わっていった。 宮廷の女性の間で女性が男装を行い、盛唐以降に民間で流行し、男性用であった服飾を女性が着ることが多くなった。別に流行ったものとして、胡服がある。これは男性のものとは違い、主に西域から入ってきたもので、狭い袖の上着、長ズボン、長靴が特徴的であった。 頭には、顔を見られぬために、冪䍦(べきり、『リ』は「よんかんむり」と下部が「離」)と呼ばれる全身を覆う布がついた頭巾をつけた。次第に、帷帽というつばが広い、つばにつけた紗(うすぎぬ)を顔から首まで垂らした帽子をつけるようになった。胡服が流行してからは、西域から入ってきた胡帽が流行り、顔をうすぎぬで遮らなくなった。その後、渾脱帽という頭の先が尖った顔を出す帽子をつけるようになった。 女性の髪型は、多様なものになった。髻は、高髻をはじめとして、100種近くも存在した。まず、宮中の女性で流行り、民間に伝わった。髻には、様々な材質に細工が施された簪を頭につけ、10本以上もつけることもあった。 化粧は胭脂が流行し、額や頬に塗られた。また、顔を飾るための額黄、黛眉、花鈿、斜紅などの工夫がなされ、額黄は額に黄色のパウダーを塗るもので黛眉で眉を描き、多様な眉の描き方が存在した。花鈿は、金箔、紙などを様々な模様に切り、額や頬を飾るもので、粧靨は両頬にえくぼを描くもの、斜紅は顔の両側で紅を斜めに描くものであった。装飾品は、耳飾り、頭飾り、ネックレス、腕輪、香袋などがつけられた。
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