映像デビューに至るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 05:11 UTC 版)
福岡県久留米市で牧師の家庭に生まれ、兄2人・姉2人の5人兄弟の末っ子として育った。子供の頃からお芝居のマネをしたり人前で歌を歌ったりするのが好きで、松田聖子や中森明菜のモノマネをしたり、トイレの中で一人芝居をしたり、誰かを演じるおままごとが好きで中学1年生までやめられなかった。久留米信愛女学院高校へ進学、3年生の時に体育祭で応援団長を務めて注目や歓声を浴び、後輩に慕われファンクラブのようなものもできるなど、後に女優を志すきっかけの一つとなった。高校卒業後に久留米を離れ、女優を目指し高速バスにて上京。金沢市内の大学に通う姉を頼って金沢で生活し、喫茶店でアルバイトをしていた時期もあった。 後に大学に進学し、周囲の同世代が就職活動を開始した大学3年時、自分は性格的に会社勤めには向かないと感じていたことから、幼いころより興味があった女優に挑戦してみたいと決意。思い立ったらすぐに実現したいと、養成所に入ったりレッスンを受けたりするのではなく、情報誌『ぴあ』に掲載された3ヶ月後の舞台作品へ出演する女優を募集する劇団の三行広告に応募して、小劇場の舞台で女優としてデビューした。初舞台が楽しかったことから、以降も同劇団をはじめさまざまな劇団の舞台作品へ客演して定期的に小劇場の舞台に立ち続け、大学卒業後はフリーの女優として活動。2001年には比佐廉(脚本・演出)・石津陽子(制作)とともに女性3人で演劇プロデュース集団「東京スウィカ」を旗揚げして2007年に卒業するまで主演女優を務めるなど、1997年のデビューからおよそ10年にわたって小劇場を中心に活動した。デビュー当初は本名の吉田 羊右子(よしだ ようこ)で舞台に立っていたが、後に先輩の勧めにより「すべての文字がシンメトリーで左右対称なので運気が上がる」との理由から本名より「右子」をとって吉田 羊(よしだ よう)を芸名とした。この頃、父親と日清オイルのCMをしている。 30代になり、出演舞台を見にきた、後のマネージャーとなる人物に「映像をやりませんか」とスカウトされ、2007年4月より初めて事務所に所属。大手事務所を辞めたマネージャーが立ち上げた個人事務所の株式会社ORANKU(おらんく)にて、事務所所属のただ一人のタレントとして同年齢の女性マネージャーと二人三脚で映像作品を中心とした活動へ進出した。実年齢にとらわれることなく上から下まで幅広い年齢の役柄が演じられるように、年齢は非公表とした。劇団員時代には引越業者、葬儀屋、パーティーコンパニオンなどさまざまなアルバイトを経験したが、女優業に専念するためにアルバイトは一切禁じられ生活費は事務所より借金して全て女優業で稼いで返済することを課せられたため、後に2014年のテレビドラマ『HERO』出演の直前に完済するまで事務所に借金があったという。 本格的な映像デビューのきっかけは2007年4月に川島なお美・下條アトムと共演した三人芝居『とんでもない女』。この舞台を見に来た監督の藤尾隆に見初められ、同年10月に始まった昼ドラ『愛の迷宮』(東海テレビ)に準レギュラー出演してドラマデビューを飾った。
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