明治14年の政変と『時事新報』とは? わかりやすく解説

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明治14年の政変と『時事新報』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 03:54 UTC 版)

福澤諭吉」の記事における「明治14年の政変と『時事新報』」の解説

明治13年1880年12月には参議大隈重信邸で大隈伊藤博文井上馨という政府高官3人と会見し公報新聞発行依頼された。福沢その場での諾否保留して数日熟考したが、「政府真意大衆認知させるだけの新聞では無意味」と考え辞退しようと明治14年1881年1月井上訪問した。しかし井上が「政府国会開設決意固めた」と語ったことで福沢はその英断歓喜し新聞発行引き受けた。 しかし、大隈重信当時急進的すぎるとされていたイギリス政党内閣制案を伊藤への事前相談なしに独自に提出したことで、伊藤大隈急進的傾向警戒するようになった。またちょうどこの時期は「北海道開拓使官有払い下げ問題」への反対集会各地開催される騒動起きていた。大隈もその反対論者であり、また慶應義塾出身者演説会新聞でこの問題批判展開している者が多かった。そのため政府関係者大隈福沢慶應義塾陰謀という噂が真実と信ぜられるような空気出来上がったとみられ、明治14年には大隈一派政府役職から辞職させる明治十四年の政変が起こることとなった。つい3か月前に大隈伊藤井上会見したばかりだった諭吉はこの事件当惑し伊藤井上宛てて違約責め手紙送った。2,500字に及ぶ人生で最も長い手紙だった。この手に対して井上返事の手紙を送った伊藤返答しなかった。数回わたって手紙送り返信求めたが、伊藤からの返信はついになく、井上最後書面には返信しなかった。これにより諭吉は両政治家との交際久しく絶つことになった諭吉理解では、伊藤井上初め大隈国会開設決意したが、政府内部での形勢が不利と見て途中で変節し大隈一人責任にしたというものだった諭吉はすでに公報発行準備整えていたが、大隈失脚し伊藤井上横を向くという状態になったため、先の3人との会談での公報の話も立ち消えとなった。しかし公報のために整えられ準備自分新聞発行転用することとし明治15年1882年3月から『時事新報』を発刊することになった。『時事新報』の創刊にあたって掲げられた同紙発行趣旨末段には、「唯我輩の主義とする所は一身一家独立より之を拡(おしひろ)めて一国独立に及ぼさんとする精神にして、苟(いやしく)もこの精神に戻(もと)らざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多政党なり、諸工商会社なり、諸学者の集会なり、その相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、亦(また)その相手問わず一切敵として之を擯(しりぞ)けんのみ。」と記されている。 ウィキソース本紙發兌趣旨原文あります

※この「明治14年の政変と『時事新報』」の解説は、「福澤諭吉」の解説の一部です。
「明治14年の政変と『時事新報』」を含む「福澤諭吉」の記事については、「福澤諭吉」の概要を参照ください。

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