明治14年の政変と『時事新報』
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「福澤諭吉」の記事における「明治14年の政変と『時事新報』」の解説
明治13年(1880年)12月には参議の大隈重信邸で大隈、伊藤博文、井上馨という政府高官3人と会見し、公報新聞の発行を依頼された。福沢はその場での諾否を保留して数日熟考したが、「政府の真意を大衆に認知させるだけの新聞では無意味」と考え、辞退しようと明治14年(1881年)1月に井上を訪問した。しかし井上が「政府は国会開設の決意を固めた」と語ったことで福沢はその英断に歓喜し、新聞発行を引き受けた。 しかし、大隈重信が当時急進的すぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤への事前相談なしに独自に提出したことで、伊藤は大隈の急進的傾向を警戒するようになった。またちょうどこの時期は「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対集会が各地で開催される騒動が起きていた。大隈もその反対論者であり、また慶應義塾出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多かった。そのため政府関係者に大隈・福沢・慶應義塾の陰謀という噂が真実と信ぜられるような空気が出来上がったとみられ、明治14年には大隈一派を政府の役職から辞職させる明治十四年の政変が起こることとなった。つい3か月前に大隈、伊藤、井上と会見したばかりだった諭吉はこの事件に当惑し、伊藤と井上に宛てて違約を責める手紙を送った。2,500字に及ぶ人生で最も長い手紙だった。この手紙に対して、井上は返事の手紙を送ったが伊藤は返答しなかった。数回にわたって手紙を送り返信を求めたが、伊藤からの返信はついになく、井上も最後の書面には返信しなかった。これにより諭吉は両政治家との交際を久しく絶つことになった。諭吉の理解では、伊藤と井上は初め大隈と国会開設を決意したが、政府内部での形勢が不利と見て途中で変節し、大隈一人の責任にしたというものだった。 諭吉はすでに公報発行の準備を整えていたが、大隈が失脚し、伊藤と井上は横を向くという状態になったため、先の3人との会談での公報の話も立ち消えとなった。しかし公報のために整えられた準備を自分の新聞発行に転用することとし、明治15年(1882年)3月から『時事新報』を発刊することになった。『時事新報』の創刊にあたって掲げられた同紙発行の趣旨の末段には、「唯我輩の主義とする所は一身一家の独立より之を拡(おしひろ)めて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、苟(いやしく)もこの精神に戻(もと)らざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多の政党なり、諸工商の会社なり、諸学者の集会なり、その相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、亦(また)その相手を問わず一切敵として之を擯(しりぞ)けんのみ。」と記されている。 ウィキソースに本紙發兌之趣旨の原文があります。
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