明治11年民法草案
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民法については、司法省の機構を再編し、箕作麟祥、牟田口通照に編纂させた。 明治9年になりまして大木君が司法卿になられました。そのとき民法草案を編纂してみるがいいと云ふことで一人の相手と粗末ながら草案を作りましたが其れも其の儘(まま)になりました。併し今日から見れば其の儘になりましたのが幸ひで有って若(も)し其れが行はれたら其れこそ大変でありませう。 — 箕作麟祥、1887年(明治20年) 実際に大木が司法卿になったのは明治6年であるため、「明治9年」は草案開始時期を述べたものとも推測される。 大木は各地(主に農村)の民事慣例を調査させ、1877年(明治10年)5月『民事慣例類集』が成立。 9月、箕作・牟田口の民法草案の一部が上程され、翌年4月に完成(1937年(昭和12年)に星野が発掘)。明治11年草案、明治10-11年民法草案、箕作牟田口草案などと呼称され、日本初の全編完成民法典法案であるが、誤訳や省略を含む仏民法典のほぼ引き写しに過ぎず、箕作も認めたように、実際の施行に耐えない完成度の低さであった。もっとも「実施など思ひもよらない恐るべき不完全翻訳法典」との酷評がある一方で(星野)、一部の論者は、廃棄されたのは近代市民法の影響が強い進歩的草案だったからだと主張している(井ヶ田良治)。独自規定は「妻は其夫の姓を用ふ可し」が知られる(188条)。なお後に箕作は西洋の無批判な礼賛を批判し、特に民法人事編における日本慣習との適切な調和の要を説いている(明治20年明治法律学校始業式)。 同年には、駐独公使青木周蔵の周旋によりドイツ人国家学者ヘルマン・ロエスレルが外務省の公法顧問として来日。後に憲法典成立にも貢献した。
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