昇進への過程とは? わかりやすく解説

昇進への過程

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 14:17 UTC 版)

中納言」の記事における「昇進への過程」の解説

正治2年1200年)ごろ平基親著した官職秘抄』では、中納言昇進するルートとして「五道」があるとし「いわゆる参議大弁同じく近衛中将検非違使別当摂政関白子息二位三位たる中将参議十五年以上輩なり。」と述べる。 まず基本となるのは、参議15年以上務めた者は、その労によって中納言昇進できるということである。これは、逆に15年以上参議務めなければ中納言なれないということでもある。もっともこの原則は、中納言地位欠員出来なければ昇進不可であった反対に摂政関白治天の君意向次第では無視され15年未満昇進することも少なくなかった。更に参議定員平安時代初期弘仁年間以来ずっと8名の原則守られてきたにもかかわらず平安時代末期には大納言中納言定員それぞれ10名にまで増やされたことで欠員出来やすくなったことも昇進し易くなった背景にあったまた、鎌倉時代後期には両統迭立の中で天皇治天の君意向短期間での参議から中納言への昇進が行われるようになるが、これは「短期間名目的な参議任命形式的に参議任官直後本人からの辞退)」「二位三位への叙位による非参議大量発生」と並んで自派への公家たちの取り込み意図して行われたもので、時系列的には政治的に劣勢であった持明院統側が最初に行い対立する大覚寺統側も対抗策として行うようになっていった。 次に参議であって左大弁右大弁兼ねる者、参議であって近衛中将兼ねる者、参議であって検非違使別当兼ねる者は、単に年功序列中納言となる者よりも優先的にあるいは短期間昇進できた。これは大弁近衛中将検非違使別当としての労は別途計上加算されことによるまた、その後大納言になれる可能性大きかったまた、摂関の子息で二位または三位位階帯び近衛中将官職にあるものは、参議経ずしていきなり中納言任じられる慣例であった不経参議)。これは藤原兼家子息道隆道長官職強引に引き上げたことから始まっている。ただし、道長は、従三位左京大夫からの昇進であり、中将経ていない。極端な例として、平安末期摂政松殿基房嫡子師家は、わずか八歳三位中将であった参議経ず権中納言補任された。 同様のことは、興国元年/暦応3年1340年)に北畠親房著した職原鈔』にも見える。こちらは「参議の労廿年以上。検非違使別当大弁宰相摂政関白の子二位三位中将たる者。」と述べている。「近衛中将」が抜けて4つルートになっている以外はほぼ同じ内容である。また、十五年」「廿年」はあくまでも慣例的な数字の話であって欠員生じなければ二十年以上経って中納言には任じられないため、どちらが正しいとか誤りとかは言えないとする指摘がある。

※この「昇進への過程」の解説は、「中納言」の解説の一部です。
「昇進への過程」を含む「中納言」の記事については、「中納言」の概要を参照ください。

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