昇進と両カロライナでの作戦行動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/08/29 06:09 UTC 版)
「ジェスロ・サムナー」の記事における「昇進と両カロライナでの作戦行動」の解説
ノースカロライナはもっと将軍の位に就く者が多くてもいいと思っていたが、誰をその地位に就かせるかということについてノースカロライナ植民地議会議員の間に闘争があった。大陸会議に派遣していたノースカロライナの代議員の中でも指導的存在だったトマス・バークは、提案された候補者の誰にも明らかに興味を示さなかった。事態をさらに複雑にしたのは、将軍の有力候補と目されていたアレクサンダー・マーティンが、臆病だという告訴が出された後に辞任したことであり、もはや適切な候補者は居ないと見られるようになった。議会は1777年11月7日に招集された後、1か月以上も将軍になれる可能性がある者についての議論を引き延ばしていた。12月15日までに議会は第二次大陸会議に送る代議員に、サムナーを将軍に昇進させるよう指示していた。しかし、大陸会議が同じノースカロライナの同僚であるジェイムズ・ホーガンと共にサムナーを准将に昇進させたのは1779年1月9日になってからだった。サムナーにはサウスカロライナでベンジャミン・リンカーン将軍の軍隊に合流するよう命令が出た。サムナーは大陸会議で代議員票を13票得て最高であり、ホーガンは9票、トマス・クラークが4票だった。 1779年6月20日、サムナーは大陸軍の旅団を率いてストノフェリーの戦いに入り、イギリス軍の右翼を衝いてドイツ人傭兵のフォン・トルムバック連隊を潰走させた。大陸軍と愛国者民兵隊はこの戦闘の間に弾薬が尽きかけており、リンカーンは総退却を命じるしかなかった。サムナーの指揮下で少なくとも7人の大陸軍士官が負傷し、ノースカロライナの兵士は10名が戦死したが、その中には後のアメリカ合衆国大統領アンドリュー・ジャクソンの兄弟ヒューが含まれていた。ストノフェリーの戦い後、サムナーは再度健康が悪化した。快復のためにノースカロライナに戻り、その快復期も徴兵活動を続けた。その快復期には財政問題も生じていた。当時は金融危機にあり、サムナーの地位にある多くの士官が故郷では財政的に立ち行かなくなっていた。リンカーンからはノースカロライナで脱走者を探し、軍務に戻るよう説得する任務も与えられた。サムナーは1779年9月と10月を公式休暇としていたが、その間にサバンナ包囲戦で愛国者軍が敗れていた。
※この「昇進と両カロライナでの作戦行動」の解説は、「ジェスロ・サムナー」の解説の一部です。
「昇進と両カロライナでの作戦行動」を含む「ジェスロ・サムナー」の記事については、「ジェスロ・サムナー」の概要を参照ください。
- 昇進と両カロライナでの作戦行動のページへのリンク