昇進とスハルト政権崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 08:11 UTC 版)
「プラボウォ・スビアント」の記事における「昇進とスハルト政権崩壊」の解説
一方、国軍司令官のベニー・ムルダニがスハルトの汚職を批判した事などをきっかけに、1990年代に入るとスハルトは国軍からムルダニの影響を一掃しようとした。この際、スハルトは家族の一員として信頼するプラボウォにムルダニ派の粛清を任せ、異例の早さでプラボウォの昇進を進めた。1994年に陸軍特殊部隊の副司令官、翌1995年には同司令官、1996年には同ポストを少将格に格上げして昇進させ、さらに同年内に陸軍戦略予備軍司令官として中将に任命されている。 この昇進の中でプラボウォは側近たちを要職に就け、陸軍特殊部隊と戦略予備軍という国軍内で最強の2部隊の司令官を初めて両方歴任した事に加えてスハルトの後ろ盾を得たことで、軍内を掌握した。一方、露骨な自派閥の優遇人事には対する不満も蓄積していったという。対立するウィラント(インドネシア語版)らの派閥に対して優位に立つためプラボウォはユスフ・ハビビとの連携を深め、ハビビが会長を務めるインドネシア・ムスリム知識人協会(英語版)の支援を受けながら、軍内での影響力を拡大した。 また、スハルトを批判する活動に対しては軍内で私的に運営する特殊部隊(通称:ニンジャ)による扇動や暗殺などを用いて封じ込めを行っていた。1996年には野党・インドネシア民主党の内部クーデターを工作し、党首のメガワティを解任させるとともにその支持者の街頭集会を武力弾圧している。翌1997年には、スハルトを批判するナフダトゥル・ウラマー総裁のアブドゥルラフマン・ワヒドを標的とし、同組織の拠点である東ジャワ州でウラマーの暗殺を重ねさせたとされる。 しかし1997年に発生したアジア通貨危機でインドネシアも社会情勢が不安定になり、スハルト退陣運動は全国各地で活発になった。これに対してプラボウォは少なくとも22人の主要な活動家を特殊部隊によって拉致監禁し、そのうち13名は失踪したままとなっている(1997-1998年のインドネシア活動家誘拐事件(英語版))。また、政権崩壊直前のジャカルタ暴動(英語版)についても、扇動を主導した疑いが持たれている。 1998年5月21日にスハルトが大統領を辞任すると、ハビビ政権下で軍の権力を掌握したウィラントらによって、それまでに特殊部隊で逸脱行為を働いた者が軍法会議にかけられ、プラボウォは同年8月に軍籍をはく奪された。なお、プラボウォはハビビが大統領に就任した場合には自身が国軍司令官に就任する密約があったと主張している。
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