日本東洋医学会とは? わかりやすく解説

日本東洋医学会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/06 08:19 UTC 版)

一般社団法人日本東洋医学会(にほんとうよういがくかい、The Japan Society for Oriental Medicine)は、東洋医学漢方鍼灸生薬・日本医学)に関する研究の発表等を通じ、東洋医学の進歩普及に貢献し、学術文化発展に寄与することを目的とした学術団体である。日本医学会の分科会加盟学会の一つ。

沿革

略史

設立前史

日本東洋医学会設立の前兆あるいは学会の前身となる組織は以下のとおり[6]

  • 千葉医科大学東洋医学自由講座:東洋医学の復興を提唱していた千葉医科大学(現千葉大学医学部の前身)眼科教授の伊東弥恵治の責任管理により、1947年(昭和22年)千葉医科大学の公認課外講座として「東洋医学自由講座」が設置された。鈴木宜民、藤平健、長濱善夫、武藤留吉などが推進役となり、講座が運営されていた。同年、学会設立の企画(仮称「東洋医学会」)が立てられるが、この段階では実現しなかった。しかし後に日本東洋医学会が設立した際には、千葉医科大学内に学会本部を置くことになる[2]
  • 横浜温故医会:千葉医大の自由講座に学外講師としても参加していた龍野一雄が中心となり、1948年(昭和23年)横浜市立医学専門学校(現横浜市立大学医学部の前身)内に「横浜温故医会」が設立された。校長の高木逸磨、教授桧物一三、助手石原明などの学内賛同者のほか横浜近郊の医師、薬剤師、鍼灸師などによって組織され、月例会を開き漢方医学の研究を行っていたが、龍野の東京移転に伴って休会状態となった[2]
  • 漢方集談会:東京に移った龍野は、矢数道明大塚敬節、長濱善夫、丸山昌郎らを中心に1949年(昭和24年)から「漢方集談会」を毎月自宅で開催するようになる。月例会では研究発表や古典の輪読などが行われていたが、同年10月、本会を学会準備委員会に切り替えることを龍野が提案し、翌月11月から準備委員会として活動していった[2]
  • 東医会:関西では薬剤師の山元豊治(章平)が幹事となって古典の解説を主な活動とする木曜会があったが、1950年(昭和25年)2月、この会から細野史郎、森田之皓(幸門)ら一部メンバーが中心となって研究団体「東医会」が発足した。東医会は、学会が正式に結成された後は関西支会として学会傘下に編入されることを予定していた[2]

学会準備委員会の委員として、細野史郎、大塚敬節、和田正系、龍野一雄、長濱善夫、矢数道明、山崎順、丸山昌郎、間中喜雄、藤平健、森田之皓の11名が決定し、勧誘活動や創立総会の準備が進められた[2]。龍野の出身校である慶應義塾大学薬理学教授阿部勝馬の斡旋により創立総会会場として慶應義塾大学北里記念図書館講堂を借りることとなり、1950年(昭和25年)3月の創立総会を経て、98名の学会員で設立された[6]


日本東洋医学会の初代会長(当時は理事長)は龍野一雄であった。しかしながら、龍野一雄が日本東洋医学会初代理事長であったことは、日本東洋医学会の文献からは一切消去されている。この事実を初めて公に指摘したのは山本巌であった[7]。しかしながら、1960年に発表された「日本東洋医学会誌第一巻復刻の辞」には、編集委員長 理事長 矢数道明の名を以て


「本会の創立は昭和25年(1950)3月12日であつた。当時はなお敗戦後の物資不足,交通難,住宅難等戦禍の余儘を残し混沌たる状況下にあつた。 前年横浜市郊外の疎開地より文京区に新居を構えた龍野一雄氏の奔走に より,昭 和24年10 月学会準備委員会が生れ,協議の結果 日本東洋医学会としての機構が成立した。本部を千葉医科大学附属病院内東洋医学研究室内に置き,龍野氏宅を事務所とし,努力のすえ、昭和25年3月12日 慶応義塾大学医学部北里図書館会議室に於いて発会式を挙げ,記念すべき創立総会が開かれたのであつた。 創立時の会員数は名誉会員31名を加えて合計98名に過ぎず,会計面も頗る困難で、研究発表は龍野理事の労力奉仕による孔版印刷会報に拠つていた。」

とある。この文章からして、日本東洋医学会初代理事長が龍野一雄であったことはほぼ間違いない。それにもかかわらず、日本東洋医学会のHPには、龍野一雄初代理事長の名前は一切表記されていない。初代理事長の名前を記せないため、日本東洋医学会のHPには歴代理事長・会長の名前がないという、極めて異例な事態が生じている。龍野一雄氏が日本東洋医学会初代理事長であったことは唯一「慶應義塾大学医学部漢方医学センタ−」のHPのなかの「センターの概要:慶應義塾大学と漢方」に2009年2月2日には記載があったが、それも現在は消されている。その理由は、龍野一雄初代理事長が「漢方、学たるべし」と唱えたからだ。


昭和16年1月15日発刊の「東亜医学第二十四号」において、龍野一雄は「竹山氏に呈ずる第二報」という論考を載せている。この中で龍野一雄は「少数の漢方医家の経験では量的なものにならない。また臨床の優劣は個人差の多い臨床技術によって左右されそれを統計的に比較することは無謀で水掛け論に陥るのが関の山だ」と、現代のEBMに通じる指摘を行っている。そして「漢方がどさくさ紛れに膨張するなどと言う方法は漢方の将来性を危うくする」と、まさに現在の日本漢方の有様を予告するかのような警鐘を鳴らした。そして、「漢方のための漢方とか現代医学のための漢方とか言うのではなく、自己を止揚して新しく生まれんとする医学の為である。その場合過去及び現在の漢方が全く歴史的のものとなってもそれは決して厭うべき事ではない」と断言した。ここで龍野一雄が反論を試みている竹山という人物についての詳細は現在では不明だが、少なくともこの文章を読む限り、日本東洋医学会初代理事長龍野一雄は明らかに「漢方は学として発展するべきであり、その結果過去、現在の漢方が歴史的なものとなってもいとうものではない」と明言している。今の日本東洋医学会の態度を考えれば、これは驚くべく科学的な主張であり、要するに「漢方、学たるべし」という主張である。学問である以上はその研究発展によって自己の過去や現在が「全く歴史的のもの」となっても構わない、と言うのである。こういう龍野一雄初代理事長の主張は、現在の日本東洋医学会には全く覧られないものである。だからこそ彼は学会の歴史から消されたのだ。そして、こうした龍野一雄の姿勢が「術ありて後に学あり、術なくて咲きたる学の花のはかなさ」と主張した大塚敬節と正面から対立するものであったことは言をまたない。

事業

主な事業は以下のとおり[1]

  1. 学術集会開催
  2. 会誌その他出版物発行
  3. 専門医認定制度
  4. 東洋医学関連の調査研究
  5. 関連諸機関との提携・交流

学術雑誌

  • 『日本東洋医学会雑誌』(略称:日東医誌、英名:Kampo Medicine、英略称:Kampo Med)[8]

1年間に6号の学会誌と学術総会抄録号を発行。2008年12月、現在通巻259号(第59巻第6号)[1]

2008年科学技術振興機構が行う電子アーカイブ事業の対象誌に選定される(J-STAGEサイトにて公開)[9]

学術総会

  • 学術総会を年1回
  • 支部学術総会、県部会、専門医地区学術講演会など年間計70回程度[1]

学会事務所

東京都港区海岸1丁目9-18国際浜松町ビル[10]

支部

北海道東北関東甲信越東海北陸関西中四国九州の8支部[1]

専門医認定制度

1989年平成元年)認定医制度発足[11]

日本専門医機構(旧 学会認定医制協議会)加盟制度[12]

認定医数:2,755名[11] 

会員数

歴代会長

歴代会長[1][2][6][注 1]
氏名 年度
初代 龍野一雄(理事長)[13] -1951年度
1 細野史郎 1952-1954年度
2 和田正系 1955-1956年度
3 大塚敬節 1957-1958年度
4 矢数道明 1959-1962年度
5 藤平健 1963-1964年度
6 相見三郎 1965-1967年度
7 伊藤清夫 1968-1972年度
8 坂口弘 1973-1976年度
9 山田光胤 1977-1980年度
10 寺師睦宗 1981-1982年度
11 室賀昭三 1983-1986年度
12 大塚恭男 1987-1988年度
13 室賀昭三 1989-1990年度
14 松田邦夫 1991-1994年度
15 宮本昭正 1995-1998年度
16 代田文彦 1999-2001年度
17 石橋晃 2002-2004年度
18 石野尚吾 2005-2008年度
19 寺澤捷年 2009-2011年度
20 石川友章 2011-2015年度
21 佐藤弘 2015-2019年度
22 伊藤隆 2019-

脚注

注釈

  1. ^ 初期は理事長と称した。

出典

  1. ^ a b c d e f g h 東洋医学会について、日本東洋医学会公式webページ、2009年2月12日閲覧
  2. ^ a b c d e f g h 矢数道明ほか「日本東洋医学会10年史」『日本東洋医学会雑誌』1960年、10巻、4号、p133-152
  3. ^ 井上了生、稲木一元「日本東洋医学会-日本医学会加盟承認さる:新会長・松田邦夫氏に聞く」『活』1991年、33巻、6号、p103-107
  4. ^ 「日本医学会分科会情報:87日本東洋医学会」、日本医学会公式webページ、2009年2月23日閲覧
  5. ^ 日本東洋医学会”. 学会名鑑. 日本学術会議日本学術協力財団科学技術振興機構. 2019年3月9日閲覧。
  6. ^ a b c 坂口弘「日本東洋医学会45年の歴史を振り返って」『日本東洋医学会雑誌』1995年、45巻、4号、p731-744
  7. ^ “[No title found”] (英語). Journal of Japan Society for Fuzzy Theory and Systems 10 (6): 1113. (1998). doi:10.3156/jfuzzy.10.6_1113. ISSN 0915-647X. https://www.jstage.jst.go.jp/article/jfuzzy/10/6/10_KJ00004960381/_article/-char/ja/. 
  8. ^ 「学会誌一覧」、日本東洋医学会公式webページ、2009年2月19日閲覧
  9. ^ 「平成20年度電子アーカイブ対象誌一覧」科学技術振興機構公式webページ、2009年2月19日閲覧
  10. ^ 社団法人日本東洋医学会定款第2条 (PDF) 、日本東洋医学会公式webページ、2009年2月12日閲覧
  11. ^ a b 「専門医認定制度の現況」、日本東洋医学会公式webページ、2009年2月19日閲覧
  12. ^ 日本専門医制評価・認定機構加盟学会へのリンク、社団法人日本専門医制評価・認定機構公式webページ、2009年2月12日閲覧
  13. ^ 慶應義塾大学医学部漢方医学センター

関連項目

外部リンク


日本東洋医学会

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矢数道明」の記事における「日本東洋医学会」の解説

復員後道明郷里茨城にて診療従事していたが、龍野一雄らの呼びかけ呼応して1949年昭和24年)日本東洋医学会設立準備委員就任し1950年昭和25年同学設立時には理事就任1959年昭和34年)から1962年昭和37年)には第4代理事長務めた道明は、設立当初から日本東洋医学会の目標として 日本医学会加盟すること。 漢方医学教科書作ること。 漢方診療科実現すること。 の3つ掲げて自ら尽力するとともに後輩たちを指導してきたが、日本医学会加盟設立から41年後の1991年平成3年)に果たされ教科書道明没した翌々月2002年平成14年12月に『入門漢方医学』として発刊され標榜科については2008年平成20年4月医療法施行令医療法施行規則改正によって「漢方」と他の標榜科名を組み合わせて標榜すること(漢方内科漢方外科漢方アレルギー科など)が可能となった

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