日本東西のうどん・そば文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 07:26 UTC 版)
「うどん」の記事における「日本東西のうどん・そば文化」の解説
主に関西で好まれ、蕎麦が好まれる関東ではあまり好まれないとされるが、蕎麦=東日本、うどん=西日本とするのは正しくない。 江戸時代前期の江戸の市中においては、麺類としての蕎麦(蕎麦切り)が普及しておらず、蕎麦がきなどの形で食べられていた。蕎麦切りの元祖は信州そばであり、蕎麦切りの最古の記録は、天正2年(1574年)に木曽の定勝寺で落成祝いに蕎麦切りを振る舞ったというものである。これが信州から甲州街道や中山道を通して江戸に伝えられたものとされる。蕎麦切りが普及したのは、蕎麦と蕎麦屋が独自の文化を育む母体となっていったこと、脚気防止のために冷害にも強い蕎麦が好まれたからである。 蕎麦は江戸で広がっていった。一方で関東地方でも、武蔵野や群馬県を中心として、それぞれの名物である「武蔵野うどん」や「水沢うどん」をはじめとする専門店も多い。実際、2004年度(平成16年度)のうどん生産量は、1位は日本全国に向けて宣伝をしている讃岐うどんの香川県だが、2位は埼玉県であり、群馬県もベスト5に入っている。これらの地域では、二毛作による小麦栽培が盛んで、日常的な食事であり、かけうどんや付け麺(もりうどん)にして食べられることが多い。 天正12年(1584年)に、大坂で「砂場」という蕎麦屋が開業した記録があるなど、近畿地方でも早い時期から蕎麦が食べられており、蕎麦切りも普及していった。近畿地方では「そば屋」よりも「うどん屋」が多いが、京都では近隣の丹波地方で蕎麦作りが盛んだったため、蕎麦文化も根付いており、専門の「そば屋」も多いうえににしんそばは京都の名物ともなっている。「出石そば」をはじめとする近畿北部の蕎麦文化は、江戸時代に信州(現在の長野県)から導入されたものだという。 讃岐国(現在の香川県)を除く西日本の大部分の地域では、大阪や京都、福岡、鳴門など腰が弱めでつゆを吸いやすい、柔らかい麺が好まれている(柔肌の大阪うどんより)。また、関西では「かやくご飯」(二番出汁を有効活用した炊き込みご飯)と一緒に供することも多く、吸い物の感覚として好まれている。
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