日本労農党・日本労働組合同盟の結成
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「棚橋小虎」の記事における「日本労農党・日本労働組合同盟の結成」の解説
1927年、普通選挙による神奈川県会議員選挙において日本労働組合同盟会長として応援演説をする棚橋。 1925年、活動を再開した棚橋は淡路を中心に関西方面で労働運動家として活動を展開した。地元では貝釦労働組合向上会を結成してストライキを決行したり、日農の小作運動や農民運動・労働組合運動など様々な活動を行った。また、無産政党の結成にも関わり、7月18日に関西民政党を結成、12月には農民労働党を結成した(農民労働党については3時間で結社禁止となった。)。1926年に入ると、こうした無産政党結成の動きは更に活発化し、3月に労働農民党が結成されると棚橋は淡路支部の準備委員に推された。8月に淡路支部は創立大会を挙行し、次期を同じくして結成された日本労働総同盟兵庫県連合会に棚橋は会長として入ることになった。単一無産政党として誕生した労働農民党であったが、右派と左派との対立が激化して右派は総同盟と共に社会民衆党を結成し、労働農民党は左傾化を強めた。棚橋はこれを受けて、労働農民党淡路支部を離れて社会民衆党に合流しようとしたが、11月23日に麻生久らが日本労農党創立趣意書を発表し、その趣意書に棚橋に無断で創立発起人に加えたことから、棚橋は日本労農党への参加を余儀なくされた。また、この出来事を受けて、総同盟は棚橋を麻生らと共に除名し、加えて尼ヶ崎連合会からも除名された。棚橋らの離反に憤慨した総同盟尼ヶ崎連合会員50名あまりは棚橋の事務所を襲撃し、棚橋は頭部に裂傷を負った。この少し前の12月4日、総同盟と決裂して結成された日本労働組合同盟の会長に棚橋は推され就任した。更に12月9日、日本労農党結成大会が挙行され、この大会において棚橋は中央委員に就任した。 1927年3月、山名義鶴と共に上京した棚橋は麻生から神戸より立候補することを勧められた。しかし、実行はせず兵庫県第2区からの出馬を模索することになった。棚橋は組織固めのために5月に日本労働組合同盟兵庫県連合会を結成し、労働組合方面の組織を固めると共に、6月には淡路における全日本農民組合連合会の担当者として長尾正作を任命し、7月には全日農淡路支部を結成して農民運動方面の組織も固めた。9月4日日本労働党淡路支部を結成し、衆議院総選挙の前哨戦として位置づけられていた兵庫県会議員選挙に備えた。9月25日の県議選の結果、日本労働党からは阪本勝・永江一夫・行政長蔵が当選したが、棚橋が応援して淡路から立候補させていた木村初吉は落選した。1928年2月、第1回普通選挙が行われることになり、棚橋は立候補に向けて動き出したが準備不足から立候補を断念した。しかし、日本労働党淡路支部の党員はこれを受けて洲本町会議員選挙の立候補を棚橋に要請し、3月棚橋はこれに立候補して当選した。5月21日、それまで分裂していた日農と全日農の合同が成立し、5月27日には合同大会が開催された。これを受けて、無産政党も合同に向けた動きを強め、10月17日に日本労農党・日本農民党・無産大衆党・九州民憲党・中部民衆党・信州大衆党・島根自由民衆党の合同に向けた話し合いを行うために、河上丈太郎・阪本・山名・麻生・棚橋が神戸に参集して五者会談を行った。この会談において棚橋は合同に反対したが、結局11月に合同は決定し、12月20日に日本大衆党が結成された。この結成に際して、棚橋は高野岩三郎を新党の委員長に据えようとしたが、本人が承諾せず失敗した。このため、委員長は空位となり、書記長に平野力三、常任執行委員に棚橋や麻生ら24名が就任した。
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