日本スポーツ界の重鎮として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 05:35 UTC 版)
「岡野俊一郎」の記事における「日本スポーツ界の重鎮として」の解説
岡野はサッカー日本代表監督を退任した後、日本サッカー協会理事となり低迷期にあった日本サッカー界を苦心して支える一方、その国内外の豊富な人脈を買われて日本オリンピック委員会(JOC)委員となり、総務主事などを務めた。JOC総務主事時代に直面した1980年モスクワオリンピックでの日本の不参加問題では、大会への参加の是非を問う1980年5月24日のJOC総会に於いて加盟競技団体代表者による採決を実施した際に、岡野はJOC委員長の柴田勝治と共に参加せずに成り行きを見守っていたという。 JOCが日本体育協会の傘下団体から独立し、財団法人化された時にはJOC専務理事として会長の堤義明を補佐した。 1981年11月に、1985年ユニバーシアード神戸大会が決まると、「日本サッカーにとって大学サッカーは重要」との考えから来日していた当時世界のスポーツ界に強い影響力を持っていた友人のホルスト・ダスラー(アディダス創始者アドルフ・ダスラーの息子)にユニバーシアード神戸大会からサッカーを正式競技にする為、助力を頼んだ。すると、ホルスト・ダスラーはニューヨークにいたこれまた岡野の友人でもある国際大学スポーツ連盟(FISU)会長のプリモ・ネビオロに電話をかけ、岡野に取り次いだ。岡野の依頼を承諾したネビオロFISU会長は、FISU実行委員会から最初反対を受けたが、ネビオロFISU会長が強引に規約を改正して、ユニバーシアード神戸大会からサッカー競技を正式競技にした。以後現在も、サッカーはユニバーシアードの正式競技となっている(2019年ナポリ大会がユニバーシアードサッカー競技としての最後の大会となり、国別の大学代表ではなく、大学単一チームが出場する大学サッカー世界選手権大会が新設される予定である)。 1990年には国際オリンピック委員会委員に就任し、1998年の長野冬季オリンピック招致、そして開催成功にIOC委員として携わり、その後はIOCプログラム委員会(五輪実施競技を決定するセクション)の委員を務めていた。IOC委員は現在のIOC規則(2002年のソルトレークシティオリンピック後に改正された)では任期8年、70歳定年であるが、岡野は1990年の旧規則時の委員就任であるため定年は79歳だった。定年となった2011年に退任し、以後は名誉委員となった。 岡野は1998年に日本サッカー協会(JFA)会長になるが、前任会長だった長沼も国際的活動がメインであった岡野の負担を増やしたくないと慮り、自分の後任には当初は川淵三郎を考えたものの、川淵が辞退したため、岡野に会長就任を要請した。岡野も当初は「協会会長とIOC委員を両立できるか悩んだ」が協会会長を引き受け、2002 FIFAワールドカップを成功させることになった。 岡野はJFA会長を1期で退任して川淵に後を譲ってJFA名誉会長、最高顧問を歴任、2003年には日本サッカーミュージアム初代館長に就任。 また東京都文京区の教育委員や学校法人日本体育大学の顧問、全国ラジオ体操連盟会長を務め、青少年健全育成や国民健康増進などの分野でも活躍した。2012年にはサッカー界から初となる文化功労者となった。
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