日本スポーツ界の功労者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 09:27 UTC 版)
岸はまた、日本スポーツ界発展に尽くした人物として知られる。岸は東京帝国大学在学中には漕艇選手として活躍した。 1911年(明治44年)に大日本体育協会(日本体育協会)が嘉納治五郎によって設立された際には維持員として参画し、1916年(大正5年)には副会長に就任。1921年(大正10年)3月に第2代会長に就任した。 1920年(大正9年)6月には日本漕艇協会(日本ボート協会)初代会長に就任した(1921年(大正10年)6月まで、以降は顧問となる)。 1924年(大正13年)6月 国際オリンピック委員会(IOC)委員に就任し、死去するまで務めた。また野津謙専務理事(後に日本サッカー協会(JFA)会長)と共に大日本蹴球協会(のちのJFA)の国際サッカー連盟(FIFA)加盟(1929年)にも尽力した。 1932年(昭和7年)に開催されたロサンゼルスオリンピックにはIOC委員として参加している。 1924年(大正13年)3月に紺綬褒章を受章した。岸の故郷である松江市の島根県庁には岸の銅像があり、1964年に除幕式が行われた際には当時のIOC会長であったアベリー・ブランデージが自ら出席し、『東京オリンピックの開催は岸の偉業である』と讃辞を述べ、岸の功績を讃えた。 岸の死後に遺言により100万円の寄付がなされ、1940年(昭和15年)にお茶の水に岸記念体育会館が建設され、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催を機に同年7月に渋谷の代々木に移転された。2018年(平成30年)11月8日、日本スポーツ協会理事会で岸記念体育会館を新国立競技場の隣接地に移転し「JAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE」と名称を改めることとなり、館内に「岸清一メモリアルルーム」が設けられることが決定した。 2019年(平成31年)4月6-7日、岸清一の胸像が同月30日に竣工した「JAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE」の前に岸記念体育会館から移設された。 岸の故郷である松江市では岸の名を冠した『岸清一賞 国際文化観光都市 まつえレディースハーフマラソン』大会が毎年3月に開催され、毎年7月下旬には『岸清一記念 松江市民レガッタ』大会が開催されている。また岸が漕艇選手出身だったということで松江市に2019年3月、『岸清一記念艇庫』が建てられオープンした。
※この「日本スポーツ界の功労者」の解説は、「岸清一」の解説の一部です。
「日本スポーツ界の功労者」を含む「岸清一」の記事については、「岸清一」の概要を参照ください。
- 日本スポーツ界の功労者のページへのリンク