日本の県
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:51 UTC 版)
詳細は「都道府県」を参照 日本では中国の制度から汲み取り、明治維新後の近代化政策の一環として、米仏普にも影響を受け、江戸時代までの「藩」を廃止し「県」を置く「廃藩置県」を行い、現代に至る地方自治・地方公共団体の基盤を築いた。 面的な名称には、国・州・藩・郡・町・村・坊・郷・里・荘または庄・区。 線的な名称には、道・街・条・里・線。 点的な名称には、京・都・府・庁・県・市・駅または宿。 人的な名称には、使。 が用いられてきた。江戸時代には能登国を「能州」と書くなど、雅称として漢風の名称が広まっていた (遅くとも『古事記』・『日本書紀』の編纂の頃から「国」と「州」の混用は行われていた)。このため通常は「州>郡>県」の順に小さくなると受け取られていた。 律令制以前には、中央から派遣された豪族が一定の自治権を持つ「国」とともに、同じく派遣豪族領でありながら朝廷の直轄領である「県」(あがた)が地域区分の単位として用いられていた。しかし律令制下で国(令制国)・郡(はじめ評)・里(のち郷)という地方区分が確立すると「県」は地域区分の単位としては用いられなくなり、小県郡(信濃国)、方県郡(美濃国)、大県郡(河内国)のように郡名など地名の一部に名残をとどめるようになった。例外として2007年(平成19年)まで神奈川県に存在した津久井郡は、江戸時代には全国で唯一、地域区分単位として「津久井県」を称していた。これは従来「津久井領」と呼ばれていたこの地域を支配した幕府代官の命によるものであるが、敢えて「県」を称したのは山間僻遠であるこの地域が単独の「郡」を称するには不足であると考えられたからだと言われている(『藤野町史・通史編』)。津久井県は明治3年(1870年)に「津久井郡」と改称された。 明治維新後、新政府は直轄地とした旧幕府・旗本領に「県」を設置し、1871年(明治4年)7月の廃藩置県で全国的な行政区分とした。同年10月〜11月の府県再編で県は複数の郡を管轄するものとされたことによって「県」が面的な名称としても受け入れられるようになり、「州>県>郡」と理解されるに至った。「郡>村」の伝統的な関係と合わせ、現代の行政区分の表記は「州>県>郡>村」の順に小さくなるものが一般的である。この場合、「県」は第2層の行政区画として扱われる。とはいえ歴史地理学のような比較的新しい研究分野では、現在の県のうち旧令制国を全て含んでいる県を念頭に「県(>州)>郡」と考える場合もある(たとえば「#その他の国の県」で述べるイギリスの場合。また、第1層の行政区画を常に「県」とする研究者もいる)。
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