日本における矛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/10 16:17 UTC 版)
日本においては矛と槍の違いについて、さらに以下のような説がある。 穂先の形状に一定の傾向があり、矛は先端が丸みを帯び鈍角の物が多いのに対し、槍は刃が直線的で先端が鋭角である。 矛は片手での使用が基本で逆の手に盾を構えて使用した。これに対し槍は両手での使用を前提としていた。 時代区分として、鎌倉時代後半、特に菊池槍から発展し南北朝時代に広く広まったものを槍とした。後世に用いられた弭槍(はずやり)や袋槍は袋穂形式ではあるが、槍から進化した槍の一種に分類される。 国産み神話で大地をかき混ぜるのに天沼矛(あめのぬぼこ)が用いられたことからも分かるように、古い歴史をもつ武器である。 矛は金属器の伝来と共に中国から伝わってきたと考えられている。材質は青銅製の銅矛で後に鉄で生産されるようになると、銅矛は大型化し祭器として用いられるようになった。日本の訓読みで「矛」や「鉾」、「桙」だけでなく戈、鋒、戟いずれも「ほこ」の読みがあることから、この時代の「ほこ」は長柄武器の総称であった可能性がある。 鎌倉時代では従来の矛や手鉾(てぼこ)が用いられていたものの、戦闘は馬上合戦の一騎討ちが主で、刀の作成技術の発達と流行から、太刀、長巻、薙刀が主力であった。しかし鎌倉時代後期の元寇において元軍が用いた集団戦への対応や、足軽の台頭により、日本でも戦闘形態が徒歩の集団戦へと変化した。それに適した武器として長柄の刺突武器が見直された結果、槍の誕生へと繋がった。 ちなみに新井白石は、「“やり”というのは古の“ほこ”の制度で作り出されたものだろう。元弘・建武年間から世に広まったらしい。」と著書で述べている。そして文中の記述において、“やり”には“也利”、“ほこ”には“槍”の字を充てている。
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