日本における眉化粧の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 02:04 UTC 版)
平安時代の日本の上流社会では、眉毛を抜いた上で「掃墨」という粉末状の墨で眉を描く風習があり、引眉と呼ばれた。江戸時代には、引眉の風習は既婚女性のものとなった。引眉は近代社会にはふさわしくない奇異な習慣と思われたので、明治3年(1870年)、お歯黒とともに禁止令が出、明治時代にはすたれた。 明治時代から大正時代にかけては、女性の眉はあまり手を加えず自然のままにしておくことが多く、くっきり太い眉が好まれた。1920年代、モガの間では下がり眉が流行していた。 現代になってからは眉の形状にもさまざまな流行が発生し、太い眉が流行する時代もあれば、細い眉が流行する時期もある。 1980年代の日本では太い眉が流行し、眉墨で黒々とした眉を描くことがあった。 1990年代中頃には、逆に極端な細眉が流行した。(アムラーも参照)眉毛を線状に剃り残し、短く切りそろえてあとは剃ってしまったり、あるいはすべて剃り落してしまった後で、細い眉を描くことも行われた。1990年代前半に登場した眉ラインを作れるテンプレート(トニータナカの製品化など)も定着し、若い男性の間でも、眉を細く整えることが流行した。 2000年代に入ってからは眉の太さは多様化している。太く自然な感じに仕上げた眉を好む女性もよく見かけられるようになったが、1990年代そのままの細い眉も依然多く見られる。男性の間でも眉を細く手入れする習慣が定着するようになっている。ただし、男性の場合、眉毛を切ったり抜いたりするに留まり、女性のように眉墨で描く加工まではしないことが多い。 日本高野連は2004年、球児らが眉毛を細く剃りすぎることを禁止する通達を出した。
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