日向是吉・虎頭の活動
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戦国時代には、大永8年/享記元年(1528年)の比志神社(山梨県北杜市須玉町比志)の本殿再興の棟札において、大檀那(おおだんな)として日向是吉のほか母牛御・妻・子息虎忠・被官らの名が記載されている。日向是吉に関しては同棟札が唯一の史料であるが、是吉と日向図書助は活動時期が近接し、さらに両者は双方とも惣領的立場にあると想定されていることから、是吉と日向図書助は親子関係であった可能性が考えられている。 晴信期には信濃侵攻を本格化させる。『甲陽軍鑑』では是吉に比定される日向大和を侍大将の一人に数え、天文7年(1538年)から日向大和に関する合戦記事を記しているが、これらの諸合戦の存在や年紀には問題が多いことが指摘されている。武田氏は天文19年(1550年)7月に深志城を陥落させているが、『甲陽軍鑑』では日向大和は馬場信春とともに城代に任じられたとしている。天文19年10月、武田氏は小県郡において村上義清に敗退しているが(砥石崩れ、)、『甲陽軍鑑』では砥石崩れを境に同じ大和守を称した日向虎頭に既述が変わっていることから、是吉は同合戦において死去していたとする説がある。 信玄は天文20年(1551年)において同郡松原上下大明神(松原諏訪神社、南佐久郡小海町)に伊那郡征圧を祈念する先勝祈願の願文を奉納しているが、これに大和守虎頭の名が見られ、日向是吉に関する記録は比志神社棟札が唯一のものであるため天文20年以降の「日向大和守」は虎頭を指していると考えられている。 虎頭の深志城代継承は不明だが、弘治3年(1557年)4月には長坂筑後守(虎房)とともに第三次川中島の戦いに際して北信地域の探索を命じられており、松本方面での活動が確認されることから深志城代の立場も継承していたと考えられている。 永禄8年(1565年)12月には、武田勢に西上野侵攻における拠点である上野国岩櫃城(群馬県吾妻郡吾妻町)に派遣され、長野氏支援のため出兵していた越後国の上杉謙信への備えとして真田幸綱(幸隆)と上杉勢侵攻に対しての協力を命じられているが、この時点では「大和入道」と称されており出家が確認されている。また、高野山成慶院『武田家日坏帳』によれば永禄7年3月21日の倉賀野(群馬県高崎市)の戦いにおいて虎頭の子昌成が戦死している。 武田氏は永禄11年に駿河侵攻を行い、駿河国の今川領国を征圧するが、駿河支配が成立した元亀3年(1572年)2月には虎頭は駿河富士浅間神社の社人・富士参詣道者への安堵状(あんどじょう)を発給しており、在地支配にも携わっていたことが確認される。また、『甲斐国志』巻九八では同社の神馬奉納記には虎頭の法名である「玄徳斎宗栄」の名が記されていたとしている。 虎頭は信濃国大島城(長野県下伊那郡松川町)の在番となっており、天正2年(1574年)には大島の地に近い下伊那の臨済宗寺院安養寺(下伊那郡喬木村)の毘沙門堂葺替に際して檀那となっている。 大島城は織田信忠による攻勢を受けて落城し、虎頭ら日向一族の消息は不明。『甲斐国志』では大島城を守備していた「日向大和入道」を是吉に比定しているが、虎頭にあたることが指摘される。天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後に、「天正壬午の乱」を経て甲斐・信濃を領有した徳川家康による武田遺臣への知行安堵では、日向氏の旧領は津金衆に与えられており、日向氏は滅亡したと考えられている。
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