方位盤射撃の再導入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 01:28 UTC 版)
その後、砲戦距離の増大と艦内通信手段の整備を背景として、20世紀初頭より、再び方位盤射撃が脚光を浴びるようになった。その唱導者となったのがイギリス海軍のパーシー・スコット大佐 (Percy Scott) で、電気を利用した方位盤射撃法について構想を練っており、1907年に海峡艦隊の巡洋艦戦隊司令官になると、その構想による方位盤射撃システムを旗艦に仮装備した。 これは舷側の副砲のためのもので、高倍率の主望遠鏡を備えた方位盤を前檣に配置し、望遠鏡と各砲の水平軸を整合し、更に潜差(双方の高低差)の補正を施し、旋回角度の目盛りを一致させた。檣楼と各砲の間には、俯仰命令伝達用としてスコット大佐が考案した電気式距離発信器、苗頭伝達用としてテレグラフ、また砲側で命令が実行されたことを報告する電気通信表示装置などの回線が設けられた。また方位盤側に引き金を設け、これによって全砲を同時に発射する発砲電路も設置された。ただし方位盤で管制されたのは仰角のみであり、方位角については、各砲塔の旋回手が目標を追尾し続ける必要があった。 まもなく、スコット大佐の試作機より複雑・精密な装置がヴィッカース社によって製造され、何隻かの戦艦に試験装備された。独立打ち方に馴染んだ士官たちからは強い反発を受けたものの、1912年11月、方位盤装備済みのオライオン級戦艦「サンダラー」による一斉打ち方と、艦隊中で射撃成績最優秀の同級艦「オライオン」による独立打ち方との比較試験で、命中弾6対1の比率で一斉打ち方が勝利を収めたことで、優秀性が実証された。翌年さらに試験を行ったのち、「ドレッドノート」以降の戦艦・巡洋戦艦への方位盤装備が決定された。第一次世界大戦勃発までに主力艦8隻の主砲用としては装備が完了しており、また1916年のユトランド沖海戦までには、突貫工事ですべての主力艦に行き渡った。 これらのイギリス海軍主力艦に搭載されたシステムでは、前部三脚檣の直上部に主方位盤、また前部上構の装甲塔内と砲塔群のうち後側の砲塔内にも1基ずつと、計3基の方位盤が設置された。主方位盤より一段上の檣楼に射撃指揮官の指揮所が設けられ、ここに弾着観測鏡、弾着時計、変距率盤、距離時計、測距受信器、各種発信器などが備えられた。また射撃盤は防御甲板の下に設けられた発令所に配置された。ここには射撃指揮所からの通信系統や方位盤からの電線が導かれ、そして発令所の苗頭主発信器や射距離盤(Gun Range Counter)からの電線が各砲塔に分岐していった。 しかし他の海軍ではこれほどシステム化は進展しておらず、例えばドイツ帝国海軍では照準は各砲塔ごとに行っていた。またアメリカ海軍では、開戦時点では射撃盤・変距率盤・距離時計塔は採用していたものの、方位盤は採用しておらず、装備化は1916年となった。
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