新宿初のゲイバー「夜曲」、二丁目初「イプセン」
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「新宿二丁目」の記事における「新宿初のゲイバー「夜曲」、二丁目初「イプセン」」の解説
新宿初のゲイバーは、美輪明宏(丸山明宏)によると、新宿角筈の「夜曲」(角筈1丁目,二幸《現アルタ》裏) であり、二丁目初は1951年(昭和26年)、要町界隈(現三丁目)にできた「イプセン」 といわれる。イプセンは当初は喫茶店であったが、口コミでゲイバー化していき、1953年(昭和28年)に夕刊紙で「男色居酒屋」として取り上げられてから知る人が増えた。1954年には、前田光安が銀座に開いていた「蘭屋」 が新宿御苑近くの新宿二丁目千鳥街に引っ越し、翌1955年には要町界隈に2度目の引っ越しをする。要町の辺りはこの2店のほか「ラ・カーヴ」、「ロートレック」、外国人客が多かった「SHIRE(シレ)」 などのゲイバーとともに新宿ゲイ・タウンの礎となる街を形成する。ちなみに夜曲では1962年(昭和37年)9月6日に経営者が店のボーイに殺される「新宿ゲイ・バー殺人事件」が起きて新聞でも大きく報じられ、大新聞がゲイという人たちがいることを最初に知らせた事件と言われた。 また1950年代は、歌舞伎町(現歌舞伎町一丁目)の「花園街」界隈、新宿御苑にごく近い「千鳥街」(現二丁目1-5番地辺り)という通りも、一般の飲み屋に混ざってゲイバーがいくらか集まる飲み屋街を形成していた。千鳥街は所在地は二丁目だったものの、現在の二丁目ゲイタウンから外れた南西に位置し、新宿通りと新宿御苑の間の御苑大通りになった場所にあった(ラシントンパレス《スカイジム》の近く)。そこは蘭屋の最初の移転先であり、「バル」、「ビザン」など他の店や、要町界隈とともに新宿ゲイタウンの中核となっていった。千鳥街には更に「ジミー」「ジュリアン」「黒い瞳」などの女装バーができ、歌舞伎町には「ユーカリ」(歌舞伎町)、「アドニス」(現・歌舞伎町区役所通り)、「明治」などがあった。 このように新宿に初期にゲイバーが集まった場所は、旧二丁目西端(現三丁目東端)の「要町」界隈、歌舞伎町の「花園街」界隈(三光町、区役所通りなど含む)、御苑近くの「千鳥街」だった。この頃のゲイバーの分類は現在と幾分異なっており、女装バーの占める割合が高かったとされる。男性同士が出会いを求めて集うバーは後年になって急激に増えたが、お客がボーイを指名して売春行為が可能であったり、店内でお客同士による性行為が出来るなど、いわば性に直結したスタイルの営業もしている店が多かったといわれる。一方で戦後初期は、やなぎ、ブランスウィック、夜曲、イプセン、蘭屋などがあった中で、多くの店は男装時代の丸山明宏に代表される非女装の中性的な美少年を雇ったという。 1945年から1964年頃はゲイバーのマスターも客も、そこがそういう場所であることは暗黙に了解し合っていても、自分が同性愛者であると敢えて名乗らなかったという。客が店を出る時もボーイが先に表に出て、人がいないかを確認して出ていたりした。ちなみに今の二丁目で現在も続くクラブでは1966年開店の「NEW SAZAE」が最も古いといわれる。
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