新喜劇やめよっカナ?キャンペーン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:30 UTC 版)
「吉本新喜劇」の記事における「新喜劇やめよっカナ?キャンペーン」の解説
そのような中、1989年4月、木村政雄が吉本興業本社制作部次長に就任。新喜劇を改革・再生させるには世代交代と全国区に売り出すことが必要であるとの方針の下、再生プロジェクトとして、期限までに観客動員数が目標値に達しなければ吉本新喜劇自体を解散というセンセーショナルな「新喜劇やめよっカナ?キャンペーン」を開始。この時に設定された目標観客動員数は1989年10月から1990年3月までの半年間で延べ18万人、1日平均に換算すると約1000人であり、当時のうめだ花月の座席定員から換算して70%近い平均稼働率(1日2回公演の場合)を上げなければ目標値に達しないという、非常に高いハードルであった。これにより、現場は緊張し、マスコミが取り上げ、関西地方を中心とした潜在的ファンの掘り起こしや、新喜劇になじみのない全国のファンに認知度を高めることにより、観客動員が増え、キャンペーン期間終了を目前に控えた1990年3月中旬、ついに観客動員数は目標数の「1989年10月から数えて延べ18万人」に達し、新喜劇は存続を果たすこととなった。 この裏で、木村政雄は座員全員にいったん解散を宣告した。そして、一人一人に面談を行い「これからは若手を中心にキャスティングします。もしかしたら、通行人Aとかをやってもらうかもしれません。それでもやっていただけますか?」とベテラン・中堅座員等にヒアリングを行い、今後の手法に意が沿わない座員は外れてもらうという再入団システムを導入した。ヒアリングの末、かつて新喜劇の顔であった花紀京、岡八郎が「勇退」という形で事実上の退団となり、その他中堅・ベテラン座員の多くが戦力外通告され、船場太郎ら一時的に残留したベテランも脇に回るなど世代交代が進んだ。当時、みうらじゅんがプロデュースした『吉本ギャグ100連発』は、この新喜劇復活劇の重要な要因の一つであったが、その内容は世代交代で去ってゆく芸人の芸が中心である。みうらはそれ以後の『吉本ギャグ100連発2』『吉本ギャグ100連発3』の制作には参加していない。 ちなみに、この「新喜劇やめよっカナ?キャンペーン」の頃から1997年6月末頃までのなんばグランド花月での新喜劇の演出を担当したのは、ほぼすべてが女性演出家の湊裕美子である。彼女は、その後、1997年秋〜1998年秋にかけて放送された東京発のゴールデンタイムの全国ネットの新喜劇の番組である『超!よしもと新喜劇』と『超コメディ60!』でも演出を担当した。 また、1991年にはサントリー「ポケメシ」のCMに出演してチャーリー浜が披露した持ちギャグ「…じゃあ~りませんか」が、全国区のブームとなり、その年の新語・流行語大賞を受賞。吉本新喜劇の知名度を全国に大きく高めることとなり、同時に行われていた吉本興業の東京再進出に大きく貢献することとなった。
※この「新喜劇やめよっカナ?キャンペーン」の解説は、「吉本新喜劇」の解説の一部です。
「新喜劇やめよっカナ?キャンペーン」を含む「吉本新喜劇」の記事については、「吉本新喜劇」の概要を参照ください。
- 新喜劇やめよっカナ?キャンペーンのページへのリンク