新善光寺城をめぐる戦いとは? わかりやすく解説

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新善光寺城をめぐる戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/20 08:35 UTC 版)

新善光寺城」の記事における「新善光寺城をめぐる戦い」の解説

『太平記』によると、延元元年/建武3年1336年)、南朝方に与した杣山城瓜生保当城攻撃し一時落城するが、金ヶ崎城北朝方に包囲され新田義貞救援し向かおうとした瓜生今川頼貞らに討たれたため、すぐに北朝方に奪還される。 金ヶ崎城落とされ瓜生氏杣山城杣山館に逃れた義貞らだったが、そこで勢力回復し延元3年/建武5年1338年2月脇屋義助主将として斯波高経の守る越前国府を攻撃する日野川戦い)。斯波勢と新田勢は日野川挟んで東西陣取り戦闘繰り広げたが、平泉寺勝山市)の衆徒らが新田勢に加勢し戦場の南(越前市帆山町付近)を迂回して川を渡り国府側に侵入府中に火をかけた。 敵に背後取られた形の斯波高経らは、新善光寺城奪われまいと慌てて軍を反転したが、防衛のために自ら設置した逆茂木木戸阻まれ城内戻れず、やむなく城を放棄して西方敗走した。これにより親善光寺城は焼失し越前国府は新田義貞脇屋義助らが占領したこの後戦況は、斯波高経北方足羽川九頭竜川流域福井市内)まで逃れて大小黒丸城に拠ったことで、黒丸城足羽七城をめぐる争奪戦へと移行していくこととなった貞治5年1366年)、一連の争乱による戦死者弔うため、城跡如道長男良如江戸時代良如とは別人)が正覚寺開いたわずかに土塁残っている。なお、現在の正覚寺山門は、江戸時代後期造られ越前府中城の旧表門(市の有形文化財)で、明治時代移築されたものである

※この「新善光寺城をめぐる戦い」の解説は、「新善光寺城」の解説の一部です。
「新善光寺城をめぐる戦い」を含む「新善光寺城」の記事については、「新善光寺城」の概要を参照ください。

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