新喜劇復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 09:03 UTC 版)
その後、ミヤコ蝶々と南都雄二を迎えての新「松竹新喜劇」は寛美がいた時期ほど客足がのびず、師匠の2代目渋谷天外も脳出血で倒れた事もあって、ついに松竹は寛美の負債を立て替えて、再び舞台に呼び戻す事になった。 復帰後の寛美は、文字通り松竹新喜劇の中心となる。抜群の技巧さもさることながら、色気と「大阪俄」の芸脈を受けついだ本格的な上方喜劇の演技を合わせ持ち、特に千葉蝶三郎、伴心平、曾我廼家鶴蝶、小島慶四郎などの腕達者な劇団員と繰り広げるアドリブ芸は絶品であった。さらに1971年に開始した「阿呆まつり」1972年の「リクエスト公演」など話題作りに力を入れるなどプロデューサーとしても腕をふるった。1973年には芸術選奨文部大臣賞を受賞するなど70年代の寛美は人気、芸ともピークに達し、大阪は無論、東京、名古屋など全国で熱狂的に受け入れられた。さらに博多俄の二代目博多淡海を一座に迎えたり、三代目市川猿之助の公演に参加するなど、他の劇団との交流も深めていった。 地方からの観客を舞台裏に招待することも多く、彼の残した色紙には大きく『夢』と言う文字が書かれることも多かった。 旧知の者や舞台関係者にはお酒やお茶ではなく、彼が愛飲していたミックスジュースを作り、舞台裏で振る舞う事もあった。小林信彦は寛美の楽屋に挨拶に行って舞台稽古を見せてもらった後で、菓子折りと現金三万円が入った熨斗袋を貰った。小林は「僕の楽屋訪問は突然だったから、急に用意したものではない。たぶん、大阪のジャーナリストのために、こうした用意がされているのだろう。」と後年書いている。 知人に騙された巨額の負債について、「アホをやっておりますが、わてのアホはどうやら本物らしゅうおます」と言い、恨み言一つも言わなかった。その負債も復帰によって完済し、大物ぶりを示す結果となった。 20年間に渡り1日も休まず舞台に立ち続け、大阪万博にすら行けなかったと言う逸話も残っているが、趣味の魚釣りを行うため、遠出する事もしばしばあった。ちなみに、上記の借金は19年目に完済された。
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