数学少年の文学開眼
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1917年(大正6年)3月に牛島小学校(現:小梅小学校)卒業後、東京府立第三中学校(現:東京都立両国高等学校・附属中学校)へ進み、4年修了で、1921年(大正10年)4月に第一高等学校理科乙類(ドイツ語)へ入学。初めて親元を離れて寄宿舎へ入った。神西清と知り合い、終生の友人となる。中学時代、数学が好きで未来の数学者を夢見ていた辰雄を、文学の方へ手引きし、目覚めさせたのも神西であった。また、同期には、小林秀雄、深田久弥、笠原健治郎らがいた。入学の夏には、かねてから近所で親しくしていた国文学者の内海弘蔵一家が避暑地として滞在している千葉県君津郡竹岡村(現:富津市)を訪ねた。この夏の体験から、のちに「甘栗」、「麦藁帽子」が生み出される。この年の11月に神西の雑誌『蒼穹』に「清く寂しく」を発表した。 高校在学中の1923年(大正12年)1月に神西清から教えられて萩原朔太郎の第二詩集『青猫』を耽読し、詩の魅力を知る。5月には三中の校長の広瀬雄から室生犀星を紹介され、8月に室生と共に初めて軽井沢へ行く。しかし9月1日の関東大震災で隅田川に避難し、辰雄は九死に一生を得たものの、母親は水死。50歳であった。辰雄は避難先の南葛飾郡四ツ木村(現:葛飾区)に養父と仮寓。10月、罹災後、室生が故郷の金沢へ引きあげる直前に、芥川龍之介を紹介された。震災で隅田川を泳ぎ、母を数日間探し回った辰雄は身体の疲労と母の死のショックの影響で、冬には肋膜炎に罹り休学。この運命的な波乱の年の一連の経験が、その後の堀辰雄の文学を形作った。 1924年(大正13年)4月に本所区向島小梅町2-1(現:墨田区向島1丁目)の焼け跡に家を建てて養父と共に移る。7月、辰雄は金沢の室生を訪ねた帰途に、軽井沢の芥川のところへ寄り、芥川の恋人である片山広子(筆名・松村みね子)や、その娘・総子(筆名:宗瑛)と知り合い、総子に恋心を抱く。辰雄はこの年、一高の『校友会雑誌』にエッセイ「快適主義」や詩を投稿しているが、そこには前年の苦しい体験を、「快適」なものに逆転させようとする意志が垣間見られる。
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