数学教育の近代化運動と脱退騒動 1957年-1962年とは? わかりやすく解説

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数学教育の近代化運動と脱退騒動 1957年-1962年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:34 UTC 版)

数学教育協議会」の記事における「数学教育の近代化運動と脱退騒動 1957年-1962年」の解説

1957年昭和32年)の第5回大会では「数学教育近代化」が議論され小学校での「比例」、中学校での「論証」、高校での「微積分」が論点となった小学校比例では「量の指導体系」が作られ中学校では図形教育体系作りが行われた。高校微積分では関数概念検討された。生活単元学習衰退と共に研究会主体学者グループから現場教師移っていった。 会の設立趣旨にある「現場教育活動基礎をおく研究実践通じて正し数学教育建設努力する」という体制実現した。若い教師積極的に参加するようになり、全国的なサークル活動盛んになり、地方ブロック大会行われるようになった。また1958年昭和33年)には小学校計算入門のための計算体系理論水道方式」が提唱され文部省とそれを支持する学者激しく対立するようになった(「水道方式」も参照)。 1958年昭和33年)の第6回大会以後「量こそが数学出発点である」として明治以来戦前まで国定教科書の「数え主義」を否定した。その量の概念からタイルを使う位取りシステムと、筆算による計算システム理論である水道方式生まれた1959年昭和34年)には、戦前国定教科書の「暗記主義」を主導してきた人々との対立激しくなり、協議会の外では元国定教科書編集者塩野直道遠山啓激し論争繰り広げた1962年昭和37年)に遠山啓対立していた副委員長横地清はじめとする29名が声明出して数教協脱退し数学教育実践研究会(数実研)を作った

※この「数学教育の近代化運動と脱退騒動 1957年-1962年」の解説は、「数学教育協議会」の解説の一部です。
「数学教育の近代化運動と脱退騒動 1957年-1962年」を含む「数学教育協議会」の記事については、「数学教育協議会」の概要を参照ください。

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