改編と終焉
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1944年9月、関東軍情報部長土居明夫少将は、当時の情勢上からできるだけ対ソ刺激を避けることを目的として、従来秘密部隊であった浅野部隊を一般部隊に切り替え、白系ロシア人青年の団体的訓練所たるものとするよう改編を行った。元コサック大佐ヤコフ・スミルノフを満州国軍上校に特別任用して隊長とした。スミルノフ上校以下、幹部全員が白系ロシア人軍官となり、情報部から中野学校出身の将校・下士官が教育・錬成・管理全般の指導顧問として派遣される仕組みとなった。兵士は一般満州国軍と同様に志願者から採用し、在営年限は9年半が標準とされた。部隊創設以来長く隊長だった浅野節上校は、ハルビンの情報部本部で、白系ロシア人部隊の運営・訓練に関する第4班の顧問となった。 1945年4月、関東軍総参謀長秦彦三郎中将は、内外の情勢に鑑み、対ソ緊急措置の一環として白系ロシア人部隊を解散するよう指示した。こうして6月上旬までに松花江主力部隊(当時の在隊兵員約250名)、海拉爾部隊(在隊兵員約150名)、横道河子部隊(在隊兵員約50名)および森林警察訓練所は、全部隊解隊された。その後は隊員の中で希望者をもって勤労団を組織し、情報部援助のもとで農耕や平和的建設作業等に振り向けることとなった。 同年8月、ソ連対日参戦にあたり、ハイラルではかつての海拉爾部隊の一部が集結して、白系コサック部隊としてソ連軍の背後で遊撃戦を展開しようと行動を起こしたが、連絡の不備と誤解した現地日本軍の攻撃を受け隊長以下がその犠牲となった。 8月15日、浅野上校のところへ、かつて浅野部隊の隊付幹部で特に信頼を寄せていたグルゲン・ナゴリャン(ロシア語版)(ナゴレン)少校が現れ、進駐してくるソ連軍本部へ同行するよう求めた。浅野上校は自室において青酸カリを飲み自決を図ったが、ナゴリャン少校に発見され、昏睡状態のままトラックでソ連軍司令部に運ばれていった。ナゴリャン少校は終戦前からソ連軍と通諜しており、日系軍官の摘発に力を貸していた。このほかに松花江部隊長スミルノフ上校をはじめ、白系露人事務局幹部の中にもソ連の内通者がいた事が終戦後判明している。
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