戦後・ミサイル時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/15 17:30 UTC 版)
「レッドストーン兵器廠」の記事における「戦後・ミサイル時代」の解説
戦後、ハンツビルとレッドストーンの各兵器廠の生産活動は速やかに縮小された。1947年にレッドストーンは待機状態に置かれ、大戦中に使い切れなかった弾薬を保管しておくための倉庫になっていた。ハンツビル兵器廠は、残っていたスタッフをレッドストーンに異動させ、1949年に非稼働となった後公売に出された。同年、陸軍兵站部ロケット・センターもレッドストーンに移転した。弾薬生産が終息し、民生用の乗用車の生産にまで転用されるようになっていたレッドストーン兵器廠もじきに公売に出される予定になっていたが、1952年にレッドストーン兵器廠の司令官としてオルガー・N・トフトイ大佐(後に少将まで昇進)が就任し、化学兵器や砲弾の製造に代わって誘導ミサイルやロケット兵器の研究が本格的に始まる。トフトイが司令官であった1952年から1958年8月の期間に、レッドストーン兵器廠は陸軍のすべてのミサイルとロケットの研究開発、調達、生産、保管、維持及び支給に対して責任を負うようになった。レッドストーン兵器廠は1956年に設立されたアメリカ陸軍弾道ミサイル局 (ABMA) の本拠地であったが、1960年にすべての宇宙開発関連プログラムを含むいくつかの施設と人員がNASAに異動した。 レッドストーン兵器廠は、アメリカ陸軍のミサイル計画の政策、開発及び試験の中心地であり続けている。レッドストーンは、陸軍航空ミサイル軍の他に、戦術UAV計画局、兵器弾薬及び電子機器整備学校、レッドストーン技術試験センター (RTTC) などの活動が行われている。レッドストーン兵器廠は、推進装置分析と開発のためのNASAの施設であるジョージ・C・マーシャル宇宙飛行センターのホストもつとめる。サターンV打ち上げロケットは、ロケット技術者のヴェルナー・フォン・ブラウンのチームによって、ここレッドストーンで開発された。
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