戦後の連合軍捕虜と戦犯問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:11 UTC 版)
「大嶺炭田」の記事における「戦後の連合軍捕虜と戦犯問題」の解説
1945年(昭和20年)8月16日、終戦の翌日から連合軍の飛行機がやって来て、捕虜収容所に収容されていた捕虜たちのために、衣類や食料を詰めたドラム缶を投下し始めた。投下されたドラム缶の一つが白岩社宅の屋根を突き破り、死傷者が出る騒ぎも起きた。また戦後まもなくの物資不足の中であり、日本人も投下された物資に群がるようになったため、これまで捕虜のことを監視していた警備兵が、今度は日本人を監視するようになったという。終戦後、捕虜の身から自由な立場となったため、米英兵らは投下された軍服に着替えて麦川の街中あたりまで出歩くようになった。自由に外出するようになった後、特に問題を起こすことはなかったというが、周囲の人々は貴重品を山に埋めたり娘を隠したりするなど、大騒ぎとなった。 山口県の当局も元捕虜の米英兵に対する待遇に気を遣った。毎日牛一頭を供給したのである。米英兵たちは毎日牛一頭は消費しきれず、日本人の関係者にも牛肉が回って来たという。結局、9月20日に大嶺駅から臨時列車に乗って米英兵たちは帰国していった。帰国に先立って山陽無煙炭鉱側から、労務管理の不備や行き過ぎもあったと思うが、戦時中のことでもあるので水に流してくれと要請し、米英兵たちは要請を受け入れ、帰国を前に仲直りを果たした形となった。 ところが、1946年(昭和21年)夏頃から戦犯の告発が開始された。軍人であった捕虜収容所の歴代所長4名、副官、収容所から炭鉱までの送迎を担当していた軍属2名、そして坑内で捕虜たちを指揮監督していた山陽無煙炭鉱の職員8名が起訴された。取り調べの過程で死亡した31名の捕虜についての診断書の提出を厳しく要求されたが、終戦時、焼却処分にしたのではないかと答え、結局あきらめたという。判決は初代所長の由利敬と2代めの所長であった福原勲が、大嶺捕虜収容所から転任した大牟田の捕虜収容所での捕虜に対する処遇の責任を問われ、BC級戦犯裁判で絞首刑の判決を受け、巣鴨プリズンで処刑された。なお、由利は巣鴨で最初に処刑された人物であった。その他の戦犯容疑者も全て有罪とされ、それぞれ懲役8年から25年の刑を言い渡され、巣鴨プリズンに収監された。結局戦犯者は満期まで収監されることはなく、7年ほどで釈放された。
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