戦後の逃亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 17:45 UTC 版)
「フランツ・シュタングル」の記事における「戦後の逃亡」の解説
第二次大戦終結後、シュタングルはなんとか自分の身分を秘匿することができた。そして、1945年、アメリカ軍の捕虜となり、安楽死プログラムを共謀した罪でオーストリアにて短期間収監されたが、ソビブル時代の同僚だったグスタフ・ワグナーと共にイタリアへと逃亡した。バチカン当局、特にアロイス・フーダル (Alois Hudal) 司教が通称「ラットライン」(ドイツ語版、英語版)と呼ばれる逃走路を用意して、彼の逃亡を助けた。そのルートを使いシュタングルは赤十字の発行したパスポートを用いてシリアへと向かった。フーダル司教によるナチス残党の逃亡援助は1947年に新聞報道され、スキャンダルとなった。フーダルはその後、1951年に辞任し、1963年に死去するまでローマで暮らした。 シュタングルは1951年にブラジルに移る前までの3年間を彼の妻及び家族と共にシリアで過ごした。逃亡の間、彼は職を転々と変えていたが、友人の手を借りてサンパウロのフォルクスワーゲンの工場での仕事に就いた。そして、彼は未だにフランツ・シュタングルという本名を使い続けていた。
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