恒藤によるラサ島探査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 21:19 UTC 版)
会社創立直後の1911年4月、リン鉱石資源の本格的調査と鉱山操業の開始のため、恒藤自らがラサ島に赴いた。恒藤らは4月19日に鹿児島港を出港し、22日にはラサ島に到着する。到着後の恒藤はまず島への上陸から苦労させられることになる。ラサ島はサンゴ礁に囲まれている上に周囲は崖になっていて、船を近づけるのが困難で上陸も簡単ではなかった。既に50代半ばの恒藤の上陸は同行者を心配させたものの、何とか無事に上陸を果した。続いて各種資材の島内への搬入もまた一苦労であったが、原生林に覆われたラサ島島内での荷物運びもまた難渋した。それでもこれまでの調査時に設営した小屋まで何とか物資を運び込んだ。 到着後早々資源調査を開始したものの、島内は原生林に覆われていたため調査は思うに任せなかった。原生林の中には刺があるアダンが多く群生していて、調査中にアダンの刺が恒藤の鼻を切って顔面血だらけとなった。しかも悪いことに島内には多くのヤシガニがいた。恒藤は大のクモ嫌いで、クモに似たヤシガニを異常に怖がった。調査初日、様々な試練にぶつかった恒藤はこれまでの調査結果を疑い出して不機嫌であった。 翌日は島内の北部の台地で調査を始めたものの、やはり生い茂る木々が邪魔をして思うに任せない。木を切り倒すには人員も時間も足りない。そこで原生林を焼き払おうとの案が出され、調査隊は火を放った。しかし当初は大した勢いでも無かった火が、強風にあおられてどんどん火勢を増していき、やがて調査隊の本拠地の小屋方面に燃え広がりだした。小屋には調査で使用するためのダイナマイトがあり、引火して爆発したら調査団一行が全滅する恐れがある。慌てた恒藤たちは船に避難しようと考えたものの、上陸が難しい島から退去するものまた難しい。そこで必死になって防火に努めたものの火の勢いは止まらない。混乱する中で作業員たちの中からは恒藤に危害を加えようとする動きも出たが、恒藤は何とかなだめた。 そうこうするうちに風向きが変わって風力も衰え、スコールも来たので火事は鎮火した。スコールが終わったのはもう日没近かったが、恒藤らは焼き払われた北部の台地に駆け付けた。台地には一面、リン鉱石の巨石が露出していて一見して大産地であることは明らかであった。調査隊は驚きと喜びのあまり言葉も無く立ち尽くし、やがて恒藤のリン鉱石調査に終始同行していた縄田技師が 多年身命を賭し、しかも逆境に立ちつつ今日に至った先生は、今やこの探検において成功されました。国家のためにまことに慶賀に堪えませぬ。 と、恒藤に祝福の言葉を述べた。恒藤はお礼を言おうとするものの感極まって言葉が出ない。この時、恒藤の目には涙が浮かんでいて、縄田技師と抱き合わんばかりの様子であった。 恒藤は10日間にわたってまず焼き払った島の北部、その後島内全域を調査した。その結果として島内の標高15メートル以上の場所の地表付近ではほぼリン鉱石の鉱床が存在し、恒藤は質、量ともに外国産のリン鉱石に十分太刀打ちできると判断した。また島内にはハブのような毒蛇やマラリアのような風土病が見られないなど、鉱山開発を進めるに当たって有利な条件も確認した。現地調査の結果を踏まえ、改めて事業計画を策定した恒藤は、当初の予定通り鉱山操業の開始作業に従事する人員を残してラサ島を後にした。
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